洗面所で蒼ちゃんがドライヤーをしている音が聞こえる。あたしはリビングのソファーの端で体育座りをして、蒼ちゃんがお風呂に入る前につけていったバラエティ番組を見るともなしに眺めている。テレビの中では芸人さんが笑っているけれど、蒼ちゃんはこの番組が好きで、今回も神回だなんて言って楽しそうに観ているけれど、蒼ちゃんがいなければあたしはこの番組をわざわざつけたりしないだろう。短い蒼ちゃんの髪はすぐに乾いてもうすぐあたしのところに戻ってくるのだろう。それで、この番組を最後まで観たあとに部屋であたしを抱くのだろう。部屋着のショートパンツの上に置いていたビールを持ち上げて一口飲むと、またひとつあたしが薄れてよく分からなくなった。「よっしゃ十一分で上がれたわ。どう?なんか面白いことあった?」蒼ちゃんがリビングに顔を出して、「別に。」と首を振ると、「そっかあ別になかったかあ。じゃあいいやあ。いいタイミングに風呂入ったな俺。」と満足そうにした。あたしの横に腰を下ろして、「ちょっとちょうだい。」とビールを奪う。蒼ちゃんは缶を持ち上げて仰いだものの顔をしかめて、「子ども舌の俺にはいかんなあ。やっぱりコーラにするわ。」と立ち上がった。冷蔵庫で冷やしていた二リットルのペットボトルからコップに注いで、「やっぱりコーラだよなあ。」とひとりごちるのが聞こえた。それから、リビングのすみっこでちんまり座ったかと思うと、時おりコップに口をつけながらうろうろ歩き出して落ち着きがない。やがてソファーの隣に座ると、「がっはは。」とテレビに向かって笑い声をあげた。あたしは大学生で、三つ年上で建築現場で働いている蒼ちゃんとは付き合って半年になる。広い家に住むのが夢だと蒼ちゃんが言ったから、それまで蒼ちゃんが住んでいた小さなアパートの家賃と両親が振り込んでくれるあたしの下宿代を足して同棲を始めた。それほど広いというわけではないけれどリビングと二つの部屋があるこの家があたしたちの巣だ。「今週もクソ面白かったな。また明日観よ。」蒼ちゃんはテレビを消すとあたしの頬にキスをして、それから顎をつかんで唇に触れるだけのキスをした。静まった部屋の中であたしは何者でもなくただ彼のものであるような安心感があった。そして蒼ちゃんはあたしを部屋に連れていくとベッドに座らせて、自分は立ったままキスをしてキャミソールの下から手を入れて胸を触った。目を開けると蒼ちゃんの目は閉じていて、部屋の扉がきちんと閉まっているのを視線を流して確かめた。蒼ちゃんはそれから少しあたしの身体を触ると、服を脱いであたしをベッドに寝かせて挿入した。厚い胸板に手を伸ばして触れる。「固い。」と呟くと、蒼ちゃんは膨らみの少ないあたしの胸に触れて、「柔らかい。」と言った。それは蒼ちゃんの嘘で優しさかもしれなかったけど、笑顔を向けるとそれ以上何も言わないであたしの上になった蒼ちゃんが動くのを見ていた。水を得た魚のように蒼ちゃんはぐんぐんと動いて、「痛くない?」とときどきあたしを気づかった。頷くと、「なら良かった。」と頭を撫でられてまた突かれだす。でも蒼ちゃんはあたしが気持ち良がってはいないことを分かっていて、気持ちいい?とは尋ねない。蒼ちゃんは腰を振りながら苦しげに顔を歪めたりするのは気持ちいいからなのだろうけど、あたしにあるのは突かれている感覚だけだ。だけど蒼ちゃんを近くに感じられるからこうするのは嫌いではなくて、毎晩蒼ちゃんに抱かれるのはどちらかといえば好きなことだった。本当は声を出したり感じているふりをした方がいいのかもしれなかったけど蒼ちゃんと付き合うまで処女だったあたしはそうしたやり方が分からなくて、目を開けて見上げている。蒼ちゃんが動いた拍子に汗が飛んできてあたしの頬に着地したのを指で拭おうとしたとき、それに気づいていない蒼ちゃんに両手を繋がれ見下ろされた。手と手を繋いで局部と局部を繋いでいるからあたしが蒼ちゃんに流れ出ていって蒼ちゃんがあたしに入ってくるようだった。でも蒼ちゃんが激しく動くのにしたがってベッドが揺れるものだから、その音が伝わっていないかが気になって壁へと視線を動かした。リビングを隔ててその隣の部屋には弟の颯介がいる。もともとはあたしと蒼ちゃんの二人で暮らしていたのだけど、高校を中退した颯介はちょっと環境を変えてみた方がいいんじゃない?という名の厄介払いで母親と再婚相手が暮らす家から追い出され、母親はあたしが一人暮らしをしていると思っているし下宿代は出してもらってるしで強く言えず、何より蒼ちゃんが俺は別にいいよと本当に別に良さそうに言ったので春頃から家で暮らすようになった。もとはあたしと蒼ちゃんがそれぞれ部屋を持っていてそれぞれのベッドがあったのだけど、あたしの部屋を颯介に譲って蒼ちゃんのベッドで一緒に眠るようになった。これはずっと続くことじゃなくて颯介が自分なりの道を見つけるまでということだったけれど、あたしは蒼ちゃんを大好きなわりに醒めているところがあって、颯介がそれを見つけて家を出ていくのが先なのか蒼ちゃんとあたしが終焉を迎えるのが先なのか分からないと思う。蒼ちゃんと同じベッドで眠るようになってから蒼ちゃんとあたしが違うんだということを喜びより悲しいものに感じることが増えた。身体が大きくて声も大きくて大雑把で細かいことを気にしなくて明るくて優しい蒼ちゃんのあたしと反対のところが大好きでトランプの表裏みたいにあたしたちがきっかり反対になっているところを発見するのが前は嬉しかったのに今はそれがあたしを少し悲しくする。「あーだめだいきそういっていい?」繋いでいる蒼ちゃんの手は熱くて額に汗をかいているのにあたしの身体は温まっていなくて冷たいんだろう。頷くと、「あーいくいくいくいくよ。」と喘ぎ混じりに言ってあたしの膣内に蒼ちゃんを射精した。蒼ちゃんはゴムをつけなくて、話す友達がいないあたしにはそれが普通なのかそうでないのか分からないけれど、蒼ちゃんはときどき女の子も男の子も両方ほしくて男の子が産まれておっきくなったら一緒にバイクで走り回りたいみたいな話をしていたから、いつかあたしが妊娠することがあれば蒼ちゃんと結婚するのかもしれなかった。でもそれは絵本の一ページのように絵空事であたしの身に起こるかもしれないこととしては感じられなかった。蒼ちゃんが身体を浮かせて局部を抜いてあたしから離れていく。待ってと引き留めたくなるけど蒼ちゃんが立ち上がってティッシュで汚れを拭くのを見ている。「ちょこも拭くよ。」と布団を捲って精液の垂れたあたしの股も拭ってくれる。それから蒼ちゃんは部屋の隅に立ててあるギターに目をやって、「弾いてから寝たいけど眠いから今日はもういいや。」と呟くとパンツを穿いただけの裸でベッドに潜り込んだ。「ちょこおやすみ。ちょこは服着ないと風邪引くからちゃんと着ろよ。」と言って目を瞑る。あたしの名前は千代子なのだけど蒼ちゃんはあたしをちょこと呼ぶ。ちょこちょこと呼ばれるたび自分が自分ではない別の生き物になって気がする。蒼ちゃんはまっすぐ上を向いて、でもシングルベッドだから身体を控えめに大の字にして眠る。そして建築現場で肉体労働をして疲れているからなのか元々なのか分からないけれど三分もしないうちに眠りに落ちてしまう。あたしは寝つきが悪いので蒼ちゃんがあたしを置いて行くのを見届けてからシャワーを浴びに行くのが常だ。照明に明るく照らされた横顔をしばらく眺めていると今日もすぐに寝息を立てだして、その頬にキスをするとベッドを出た。

 その晩もなかなか寝つけなくて蒼ちゃんが眠っている電気を消した部屋を出てリビングに向かうと、二時頃だったけれど颯介のいる部屋から明かりがこぼれているのが分かった。ノックをして、「入っていい?」と声をかけると、「いいよ。」とくぐもった声が返ってきて扉を開けると、椅子の上で体育座りをしていた颯介がこっちを見て、「眠れないの?」と聞いた。「眠れないからホットミルクでも飲もうかと思ったんだけど一緒にどう。」と尋ねると、「ご一緒するよ。」と颯介は立ち上がった。

 お母さんはお喋りだけどあたしも颯介もあまり話をしない。ホットミルクのマグカップをローテーブルに置いて、あたしがソファーに座って颯介がカーペットに座った。颯介がさっき部屋で読んでいた本をそのまま持ってきていて読書を再開し始めたから、あたしも物音を立てないように部屋に戻って読みかけの本を持ってきた。蒼ちゃんは少年漫画は好きだけど本は読まなくて、颯介は天文系の本があたしは小説が好きだ。温かいミルクをすすりながらときどき颯介の白い首を見た。颯介とあたしは雰囲気が似ているとはよく言われるけど、颯介は背はまあまああるわりに華奢で女の子みたいな綺麗な顔立ちをしていて繊細で壊れやすいガラスみたいな感じがする。颯介が二年生で高校を中退したのは学校でいじめを受けていたからだった。男子校でフェンシング部に入っていた颯介は部活の三年生に性的ないじめを受けていたのだという。でもこれは母親から聞いたことであって颯介からその話を聞いたことはなかったから、実際のところ颯介が何をされていたのかをあたしはよく知らない。そんなことがあったから余計に颯介を繊細に感じるのかもしれないけど、でも明日起きて窓を開けてベランダの下に飛び降り自殺した颯介の死体があったとしても理解できてしまうかもしれない。

 

あたしは早起きが苦手で大学の講義を極力二限からしか入れないようにしているので、蒼ちゃんの朝はあたしの朝よりも早く始まる。まだベッドでまどろむなか意識のはしっこでアラームが鳴って何度目かでそれを止めた蒼ちゃんがベッドから出て行くのを感じた。あたしは目を瞑ったまま蒼ちゃんがトイレに行って歯を磨いて顔を洗っているのだろう物音を聞いていて、そのうち部屋に戻ってきてカーキ色のTシャツと黒いパンツを身につけるのを薄目で見た。行ってらっしゃいを起きて言えばいい話なのだけど、家を出て行ってしまう寂しさのために薄目のままベッドの縁から手を垂らすとそれに気づいてくれた蒼ちゃんが手を触ってくれて、「ちょこはまだ寝てなよ。」と言うと部屋を出て行って玄関の扉を閉められる音がした。再びあたしはまどろみに落ちていって、九時になってアラームが鳴るとそれを止めてゆっくりと上体を起こした。 リビングに出るとフレンチトーストのいい香りがして、キッチンに立っていた颯介に「おはよう。」と声をかけられた。おはようを返してトイレに行ってから洗面台に向かう。水を顔に浴びせるとひやりと冷たい感覚が肌に跳ねた。あたしが一人暮らしをしているということで家にたらい回されてきたはずが、あたしと他人との暮らしに入り込むことになったのだからむしろ颯介は気の毒ではあったのだけど、颯介なりにそれを悪いと思っているのか彼が家に来てから洗濯干しとお風呂洗いとゴミ出しは彼の仕事となり、ついでに颯介とあたしの分の朝食まで作ってくれるので、部屋を譲った不便を感じること以外は楽になってしまっている。洗面所から戻るとダイニングテーブルにフレンチトーストと目玉焼きとミルクが並んでいて、自分がお母さんに世話を焼かれている小さな子どもであるような気分になる。颯介の作る目玉焼きは黄身が白っぽくなっていないでオレンジ色をしていてきれいだ。「美味しそうに焼けてるね。」と言うと、「僕は大したものは作れないよ。」と颯介は遠慮がちに微笑んだ。目玉焼きの中央に箸を入れると半熟に焼かれていた卵がじゅわっとこぼれて白い皿に色をつけた。不思議だ。颯介といるとき蒼ちゃんといるとき現実感がなくて生きていないような気分になる。あまりにも楽に息をしてあまりにも楽に食事をとるから、これは夢なのかもしくはあたしはもう死んでいるような気さえする。「ねえ、駅の近くに新しいカフェができているのを見つけたよ。」無理に喋る必要がないからあたしたちはあまり話をしないけれど、ふと昨日の帰りに見つけたものを思い出して喋る。「へえ。」と颯介は顔をあげ、「ケーキが美味しそうな可愛い感じのカフェだった。」とあたしは説明を補足する。蒼ちゃんはお洒落なカフェより居酒屋や焼肉屋の方が好きなので、「一緒に行く?」と尋ねると、「行ってもいいよ。」と颯介は答えた。  二限から大学に行って九十分の講義を受けると昼休みになるものの、まだお腹が空かないあたしは飲み物だけを自販機で買って次の講義がある教室に早々と移動した。百人二百人は学生を収められそうな大教室もまだ生徒はまばらで、ところどころでお弁当を開いている学生がいるぐらいだった。りんごゼリーのジュースをストローで吸いながら小説のページを捲る。こうしているとひとりのあたしはとてもひとりのようで蒼ちゃんとか颯介のことを思い出す。さっきまで汗を流して何かの建物を作っていたのであろう蒼ちゃんも今は昼休みでスーパーかコンビニで買ったお弁当かカップ麺かを食べているのだろうし、颯介は近所のコンビニでレジ打ちでもやっているのだろう。大学に講義を受けに来ていてすらあたしが受動的なのに変わりはなく、生きているのにやはり生きている気がしないのだった。周囲を見渡しても移動している生徒はまだ少なく教室はがらんどうで、何列か前に座っていた三人組の女学生がお弁当を広げながらきゃっきゃと話をしているのが雑音としてよく耳に入った。あたしは透明であたしに彼女たちは見えているのに彼女たちにあたしは見えていないのかもしれない。もしくは彼女たちの靴はぴったり床にくっついているのにあたしのパンプスは何ミリ何センチか浮いていて浮遊しているのかもしれない。

巨大なオーブンの中でじりじりとローストされているようだ。急いで飛び出してきたのでいつもは持ち歩いている日傘を忘れてきてしまったのが痛かった。陽が炎となって身体を焼いていくみたいな炎天下で、地図アプリを起動させたスマホを手に蒼ちゃんの会社への道を探していた。土曜日は大学に行かない日なので早起きして蒼ちゃんにお弁当を作ったのだけど、前に話していたカフェに颯介と行こうと準備をしていたとき、お弁当を持って行くのを忘れたと謝罪の電話がかかってきた。蒼ちゃんの勤めている会社は家から歩いて十分かからないぐらいのところにあって、普段は現場仕事をしている蒼ちゃんだけどたまたま事務所にいるとのことでお弁当を届けに行くことになったのだった。ただ家の近所といえどあたしは方向音痴で初めての場所に行くのが得意ではなくて、少々迷いながら不安な足取りで進んでいってようやく会社のあるらしい建物に辿りついたころには背中にびっしょり汗をかいていた。門のあたりには誰もいないようで敷地を進んでいくと建物の入り口にインターホンがついていたので、大学生のあたしが来るには場違いであるように引け目を感じつつそれを押した。戸を開けられて出てきた女の人があたしを見て一瞬首をかしげるような表情をしたあとに、「こんにちは、何の御用でしょうか?」と半分ぐらいの笑顔を作って尋ねた。その女の人越しに戸の向こうの事務所の内側が覗いていて、初めて見る作業着姿の蒼ちゃんがあたしの知らない若い女の人と笑っているのが見えた。金色に近い明るい髪をおろした女の人はすごく派手っぽかったけど綺麗な人に見えて、蒼ちゃんがあたしと一緒にいるときには見せないような楽しそうな笑い方をしていて心がきしむ。作業服を着た男の人たちがいる中であたしの知らない蒼ちゃんがあたしの知らない女の人と楽しそうにしている。用を告げるより先にあたしを見つけた蒼ちゃんが、「ちょこー!」と大声を張り上げたので中の人たちが一斉にあたしを見た。蒼ちゃんの馴染みの仕事仲間だろうにあたしは知らない人たちに目を向けられて緊張がのぼって身体が固くなる。「何それウケるちょこって犬?」あの女の人の声が聞こえて、戸を開けてくれた女の人が戻っていこうとするのが目の端に映って、「あっすみませんありがとうございました。」と慌てて礼を言う。馬鹿にされている。あたしは犬じゃない。蒼ちゃんは急いで走ってくると、「せっかく作ってくれたのにごめんな。わざわざ届けてくれてありがとう。暑かったろ。ごめんな。」とあたしの頭に手を載せて撫でた。汗で濡れているから頭には触らないでと思うけど、「平気。」とお弁当を入れた紙袋を差し出す。「ササの彼女?」後ろに座っていた男の人から声がかかって、蒼ちゃんは振り向くと「そうですよ!いやあ今日は弁当作ってもらったのに忘れてきちゃってもうほんと申し訳ないっすよ届けてもらっちゃって。」と大きな声で返事をした。冷やかしの野次が飛んできて蒼ちゃんが大声で言い返すのを見ていていつのまにか浮かべていた愛想笑いはあたしの口角を上げたままぴったり閉ざしていて窮屈だった。蒼ちゃんが馴染んだ景色の中であたしだけが異物である感じがして、気になってあの女の人をちらりちらりと見たけどそのたびに目が合ってよく分からないけれど彼女はあたしに怒っているのかもしれなかった。彼女は蒼ちゃんのことを好きなのかもしれなくて、あたしより彼女の方が蒼ちゃんに似合っているのかもしれないとちらりと考えた。しばらくするとやっと蒼ちゃんがあたしを見て顔を近づけて、「ごめんね汗かいただろうから冷たいお茶とか飲んでく?」と聞いた。ほんとはのどが渇いていたけど首を横に振って、「大丈夫。」と答えて事務所を後にする。閉じた扉に背を向けて歩きだし、事務所の敷地内を出ていって颯介との待ち合わせ場所に向かおうとするけれどくらくらした。

颯介と待ち合わせをしていたのは駅のそばの広い書店ではあったけれど、どうせ天文学系の本のコーナーにいるのだろうと見当をつけて向かうとその通り颯介の後ろ姿が見えた。170センチは越えているだろうに華奢な颯介の身体はキリンのように細長くて、瞬きする間に本棚に埋もれて消えてしまうんじゃないかと感じた。「お待たせ。」颯介は振り返ると一定の距離を保ったままあたしをじいと見て、「顔色良くないよね?真っ白じゃない?大丈夫?」と尋ねた。そうなのだろうか。エアコンのよく効いた書店に入った今はこれといって体調の悪さを感じなかった。なんとなく両頬を手で覆って確かめるようにしてみたけどそれで何が分かるでもなく、「平気だよ。でも外暑かったからかな。喉はすごく乾いちゃったから早くカフェに行こう。」と身体をくるりと回して踵を返した。 前に店外から眺めてケーキが美味しそうなカフェと思っていたのは、正確にはフルーツタルトを専門にしたカフェでそれぞれフルーツタルトと冷たい飲み物を注文した。店内を見渡すと女性客がほとんどでガテン系の蒼ちゃんを連れてこれば浮いたかもしれないし、コンビニスイーツを食べるみたいに勢いよく食べて旨かったけどすぐ無くなっちゃったよなんて言うかもしれなかったけれど、タルトをちまちまフォークで切って口に運ぶ颯介は別に浮いていなくてなんなら周りの女性客よりもおしとやかにさえ見えた。「さっきね。」と言いかけると颯介は顔を上げて表情だけで続きを促した。「蒼ちゃんが知らない人みたいで怖かったんだ。」「どういうこと?」と颯介が首を傾げる。「仕事仲間の人たちと仲良さそうにしてていつもの蒼ちゃんなんだけどちょっと違うくて、あと派手な美人っぽい女の人と楽しそうに話してるのが見えた。」タルトに載った色鮮やかなフルーツが綺麗だ。ゆっくりフォークを下ろしていくと底のタルト生地のところで引っかかって力をかけるとかすかに皿との摩擦音を鳴らして切れた。「要は嫉妬したってこと?」苦笑いして尋ねられて嫉妬と収められてしまうのは嫌な感じがしたしもっと大きなものであるような感じがしたけれど、「まあそうなのかな。」と言うと、「それに姉ちゃんが知らない人といるならまた違う感じがするのはそんなもんじゃないの。」と冷静に指摘されてそう言われればそうであるようなでも引っかかるようなでぐるぐるして面倒になって匙を投げた。あたしは蒼ちゃんに依存しすぎていてあたしの知っている蒼ちゃんが彼の全てであってほしいのかもしれないなんて馬鹿げている。「蒼さんは良い人だよ。」颯介は少し怒ったように言って、「そうだよ。」とあたしが頷くと空気は空白になってでも兄弟であるあたしたちにはむしろ空白こそが普通の空気だった。蒼ちゃんは颯介が来てからも変わらずセックスをしたりはするけれど颯介を嫌がる素振りをちっとも見せないすごく良い人で、蒼ちゃんにとっては人類皆兄弟みたいな感じなのかもしれない。でもあたしが蒼ちゃんと似ているところはひとつも見つけられなくて、あたしと颯介の方がずっと似ているところが多い気がした、それは当たり前のことなのかもしれないけど。タルトを三分の二ほど食べ進めたときに突然気持ち悪さが込み上げてきた。「ごめんちょっと。」口を手で抑えて視線でトイレを探すあたしに、「何どうしたの大丈夫?」と颯介が心配そうな声をかけるのが聞こえたけど返事をする余裕もなく奥のトイレに駆け込む。幸運なことに先客はいなくて個室に入ると手洗いのところに顔を近づけてもどした。なんて気持ち悪いのかあたしを巡っていく嫌悪感でぐらぐらする。胃からあがってくるものを吐き出しきって手で水をすくって口内を十分に洗うと、壁を背にしてお尻は床につけないようにして座り込んだ。日傘を差さないで日射しを浴びすぎたせいでやっぱり体調が悪くなっていたのかもしれない。天井を見上げて気持ち悪さを落ち着かせるとあの女の人と蒼ちゃんが笑っていた姿が宙に浮かんだ。ビデオのようなそれを打ち消さずに見上げたままでいて犬みたいな呼び方と言われたことを思い出す。あたしはちょこよ、あなたはどんな立派な名前を持っているのってふっと笑いがもれて、気持ち悪さが幾分収まったのを感じた。立ち上がって念のためにもう一度口をゆすいでから席に戻る途中ででもやっぱりこれは嫉妬よりもっと大きなものだろうと思う。

 

 夏の夜。リビングに三人が集まっているのに蒼ちゃんはテレビの前のカーペットのところでギターを弾いていて、颯介はダイニングテーブルの椅子の上であぐらをかいて本を読んでいて、あたしは蒼ちゃんの近くのソファーにかけて小説を捲っているもののあまりその内容が頭に入ってきていなくてときどき蒼ちゃんを盗み見るのだけど蒼ちゃんはそれに気付いていないような夜だった。蒼ちゃんは日中外で働いているせいか暑さに強くてエアコンをつけたがらないので、窓を全開にして扇風機を強にした部屋では扇風機の羽音とときどき外を人が通り過ぎていく音と、蒼ちゃんが自信満々に弾くギターの音で満ちていた。蒼ちゃんのギターが上手いのかあたしにはよく判断がつかないけれど蒼ちゃんはバンドを組んでいてたまにライブをしたりしている。あたしはそのライブを見に行ったことが一度あるけど、親しい人たちが客として集まったのだろうライブであっても舞台の上の蒼ちゃんは他人のようで、格好いいと女の子たちに拍手されるのは誇らしいよりずっと蒼ちゃんが遠くなるようだった。ギターを弾く蒼ちゃんが悦に浸っていてあたしを見ていないのを颯介が本に熱中していてあたしたちのことなんて気にしていないのを確かめて時おりそっとお腹を撫でた。ドラックストアの検査薬が陽性になって昨日産婦人科に行って分かったことだったけどあたしは妊娠していた。今は妊娠の五週だけど中絶するなら六週から九週までの初期がいいのだとお医者さんが言っていた。あたしにはそれほど時間がなくてそれを蒼ちゃんに告げるかすら迷っていた。あたしより遅い時間からコンビニのバイトに出る颯介にはバレてしまっていたけど今日は大学をずる休みして一日中ベッドにいて、その昼の間うるさかった蝉の鳴き声も今は止んでいて、あたしたちが三人いる光景の中で蒼ちゃんが指を動かすたびに音が奏でられでもそれが瞬く間に空気に浸透して溶けていくのが悲しくて涙が出そうになった。情緒不安定かよ、そうだ。でもちらりと見た蒼ちゃんは気持ちよさようにギターを弾いていて、こないだの女の人と蒼ちゃんのことが頭をもたげる。でもこれは単なる焼きもちじゃなくて、あら焼きすぎて焦げちゃったのねじゃなくてあたしと蒼ちゃんの間に横たわるもっと根源的なことで、蒼ちゃんとあたしはふさわしい番いではないんじゃないかというずっと端っこで感じていたことが今になってじりじりじりじりとあたしを焦がす。嫌だな。好きだよと言いたいと思った。ずっと一緒にいようねと言いたかった。あなたの子を妊娠したのと言うべきなのかもしれなかった。ページを進めていっているのに文字を目で追っているのに全然分からなくて目を滑り落ちていく。俯くと木目の茶色いフローリングの隅に埃でできたもにょもにょがあるのが見えて掃除機をかけなくちゃって思う。易々と蒼ちゃんに言い出せないのは、蒼ちゃんが目を輝かせて産んでと言うかもしれないことが怖いから。なんてあたしは後ろめたくて最低なのかと思うけれどそれは一年や三年のことじゃなくて少なくとも二十年契約のことぐらいで、あたしの存在にすら不安定なあたしがあたしと蒼ちゃんの子どもを産むのかと思うとなんかね色んなこと放り出してウミガメになって無心に卵をぽこぽこ産卵するか死にたいと思ったからだめだーってそれを蒼ちゃんに言うことすら躊躇っている。ぱたぱたぱた瞬きをして何歳かになった蒼ちゃんの子どもとあたしと蒼ちゃんと生まれたての子をあたしが抱えているところを想像するけれどそれは想像に過ぎないようでどうしてか泣きたくなる。ええ?読んでいた小説がとうとう犯人を見つけて山場を迎えたらしいのにぼうっと読んでいたあたしには主人公の言っていること記述されていることに意味が分からなくて、開いたまま本を膝の上に置いて読んでいるんですよというポーズを保ちつつもこちらをちっとも気にしていない蒼ちゃんと颯介を見た。「ねえ蒼ちゃんコーラ飲む?」蒼ちゃんはギターの演奏を止めることなく、「入れてくれるの?ありがとー。」と軽く返事して、「颯介もコーラ飲む?」とあたしは尋ねたその瞬間死んでしまいたかった。颯介はコーラとか人工的に味のついたジュースは好きじゃなくて家の冷蔵庫には二ニットルにコーラのペットボトルが入っているけどそれを飲むのは蒼ちゃんだけだった。こんなの人任せでいい加減で良くないかもしれないけど颯介がいると言ったら妊娠していることを蒼ちゃんに告げて、いらないと言ったら蒼ちゃんには言わないと今決めた。三人が思い思いのことをしている中で一番手持ちぶたさなのはあたしだったろうけど、「なんで。姉ちゃん僕が炭酸苦手なの知ってるのに何その嫌がらせ?」と眉をひそめる颯介に、「一応聞いてみただけだよ、一応。」と苦笑いすると、「そんな一朝一夕で好きになることじゃないよ。」と颯介は薄く笑った。

 

エアコンでよく冷やされていた産婦人科の待ち合い室を出て外に踏み出すと、日傘を差していてすら身体中をぼうっと包み込んでくるような暑さにくらくらした。蒼ちゃんにも誰にも話さないまま中絶することにしたあたしはその手術を五日後に行ってもらうように決めてきたところだった。日帰りで可能で手術そのものは十分程度で終わると話す女医の語り口は淡々としていて、あたしはすごくたいそれたことをしているようで怯えた顔つきをしていなければいけない気がしていたのにそっちの方がおかしなことで、あたしもこのことを事務的にこなさないといけないんだろうかという気にさせられた。命はさじ加減でえいやって決められる。適当に受精して適当に堕胎される適当に事務的に正確に。オタマジャクシのように海を泳いで結びついて二十年生きてきたあたしが蒼ちゃんとえいやって作った命をひとりでえいやって殺す。不思議だ。あたしはあたしを殺せないのにあたしの中の命なら殺せる。お腹を撫でながら歩くけれどそこは膨らんでいなくてぺったんでこの中には子宮とか腎臓とかがあるだけでそこに命が浮いているようにはあまり感じられなかった。ぷかぷかぷかあたしだって宙を浮いて歩いている。下宿先の近所にも産婦人科はあったけれどなんとなく大学の人なんかに会ったりしたら嫌で初めて降りる駅にある産婦人科に行ったのだけど帰り道を歩いていて駅の前まで戻ってきて、でも蒼ちゃんが待っている家に帰りたくなかった。駅前にはベンチが並んでいてそのうちの誰も座っていないところに腰をおろす。あたしと蒼ちゃんはかわりばんこに夕食を作るのだけど今日は蒼ちゃんの日で、野菜を大きく切ってソースをたっぷりかけた焼きそばだとかそういう男飯を作ってあたしを待っていてくれるんだろう。見渡すとその駅の周辺は結構栄えていてある方向には商店街があり、またある方向には銀行やらチェーンの食べ物屋やら大きなビルが立ち並んでいた。中絶手術を行ってからまた一週間後に検診のために来てもらわないといけないとあの女医は言っていて、あたしはまだ何回かこの駅を訪れないといけないのだけどそれが終わればもうここで下車することはないのだろう。見知らぬビル群を眺めながらお金をどうしようと考える。中絶費用は十二万円で、仕送りに加えて大学の図書館で週に何回かのアルバイトをしてもらえるお金でほどほどに生活を回していたから貯金なんぞはなくて五万円ぐらいが足りなかった。蒼ちゃんや颯介や親かに借りるにしても五万円を借りる口実が思いつかなかった。旅行にしたって留学にしたって自動車免許取得にしたってバレてしまう。俯いて自分の足と地面だけを視界に入れて途方にくれる。とそのとき紳士物の靴が近づいてきて、「すみません。とても失礼なことなんですが。」と言う声が聞こえた。顔を上げると高級そうなスーツを纏った中年の紳士があたしを見ていて、いつの間にか服が泥だらけとかあたしに何か変なものがついているのだろうかと焦ると、「今から一発五万円で相手をしてもらえませんか。」と口にされた。へ?呆気に取られてその紳士の口元を見つめたけれどそれは紛れもなくその紳士が発した声であって、でも髪の毛もぱりっと整えた上品そうな男性がそんなことを言うなんてちょっと信じられなかった。というか紳士はエスパーであたしの心を読めるのかと不思議にすらなる。「は、どこで。」尋ねると紳士は意外そうな顔をして、「この辺りはそういうホテルはいくらでもありますよ。」と答えた。  部屋に入ると紳士はシャワーを浴びてこさせて、バスタオルだけを巻いたあたしをひんむいてベッドに仰向けにさせて悪夢のように丁寧にあたしの全身を舐めた。何回か来て気に入っている部屋なのだろう天井が鏡張りになった部屋を紳士は選んであたしには身体を舐められている自分と紳士の尻や腰がよく見えるのだった。乳首の先だけを後にとっておいてその周囲だけをしつこく舐める紳士はあたしに纏わりつき舌先で獲物を舐め回す巨大なヘビとかイグアナのようでそうされているのは快か不快かで言えば圧倒的に不快であったし、不感のあたしは残念なことにそうされても何も感じないのだった。あるのは舌が身体中を這う感覚だけだ。「いけませんなあ可愛らしいお嬢さんを舐めると興奮してしまって。」「もうしばらく我慢していてくださいね。」「やっぱり素人のお嬢さんは汚れがない感じが良いなあ。」紳士はときどき喘ぎ混じりに声をはさんだけれど返事をすることではない気がしたので黙って聞いていた。足も腕も首もお腹も胸も舐められるので唾液の臭いが気持ち悪くなって目を瞑って堪えようとしたけれど余計に嗅覚が鋭敏になるようで目を開けて宙を見て鼻の穴を締めて息を吸い込まないよう意識した。べたべたべたべた丁寧に汚されていくようですごく妙な感じがして美味しい話には裏があるという言葉を思い出す。別に殺されているわけでもなく熱い蝋燭を垂らされているわけでもなくスカトロをやらされているわけではないのだけど。そうなるとこれはやっぱり美味しい話なのだろうか。蒼ちゃんのことを思い出す。感じないあたしを気遣いながらもぐいぐい動いて気持ち良さそうにする蒼ちゃんとのセックスは嫌いじゃなかった。でも今あたしは蒼ちゃんとの子どもをおろすために知らない紳士の唾液まみれにされているのであってちゃんちゃらおかしくて笑えるのだ。とうとう乳首の先を舐められて、「ひゃん。」と口からついて出した自分に驚いた。無意識のあとに意識がついていって気持ちよさは感じないのに自衛のために感じている振りをした自分に傷ついた。あたしは五万円をもらうために感じている振りをしようとしているのだ。なんて安い心なんだろうなあってあたしがびりびり破けていくけど紳士は満足げに「いいねえ。」と言ってますます乳首を舌先でこすってきたから、「あっあっあ。」とますます声を出してあげた。なんて馬鹿らしいんだろう。

 

 最初から空っぽで何も入っていなかったのかもしれないけど空っぽになったお腹を撫でてあっためていた、ソファーの上で体育座りをして。逆に口からはビールを食道に胃に流していって冷やしていくけど。あたしは今日大学をサボって堕胎手術をしてきて蒼ちゃんは仕事の後に飲み会があって今日はまだ顔を見てお喋りをしていなかったけど、さっき電話があって先輩が酔いつぶれてしまったから家に連れてくると言っていた。あたしは閉鎖的で自分の巣に知らない人を入れたくなくてそれを不快に感じたし、蒼ちゃんはあたしがそんなのをなんとなく分かっているだろうからすごく申し訳なさそうにしていたけれど、まもなく玄関のドアが開いて蒼ちゃんとそこまで年は変わらなく見える男の人が腕を組まれてリビングに現れて、その彼の顔は真っ赤になっていてあたしを認識していないようだったけれど蒼ちゃんは「ただいま、悪いね、俺が介抱するからちょこは本当に何もしなくていいから気にしないで。」と謝ったのであたしはソファーとショートパンツのお尻のところをボンドでくっつけた人になりたくて本当に何もしないで見ているだけでいた。ここに来るまでにもどしたのだろう据えた胃液の臭いがしてあのとき紳士に抱かれたことを思い出して体育座りをした膝のところに顔を埋めて泣きそうになった。でもなんで泣きそうなのかは自分でもよく分からなくて誰にも内緒で命を奪ってきた今日のあたしは激情に揺れているのかもしれなかった。「くろさん汚れ落とした方がいいっすからとりあえず風呂入りましょっかあ。」と蒼ちゃんが言って、くろさんとかいう人が酔っ払いの呂律が回らない喋り方をしてぐだぐだ嫌がるのを聞いていた。本当はお茶を入れてあげたりとか何か手伝ってあげた方がいいのかもしれないけどそんなことをする気が起こらなくてビールをぐびぐび飲む。蒼ちゃんが困っているところをサカナにしているみたいだけどそういうわけでもなく一人でいるみたいな気持ちになりたかった。リビングのドアが開いて颯介が現れ、「あれどうしたの。お客さん?」と尋ねて冷蔵庫に入れていたペットボトルを取り出しグラスに水を注いだ。蒼ちゃんがそれを説明して颯介は「ふうんそうなんだ蒼さん面倒見よくて大変だね。」と言ったけれど、「夜遅くに颯介にもわりいな。」と蒼ちゃんが軽く謝ったあと少し空白があいて、「弟さん?綺麗な顔してるね。学生さん?」とくろさんが絡んだ。「いえ、フリーターです。」答える颯介の声が一段低くなって、「ああそうどこでバイトしてるの。」と問いかけられたのに「近所のコンビニです。」と颯介はそっけなく答えた。「そんな仕事よりさあウリとかやった方が儲かんじゃないの。知ってる?一回しゃぶっただけで三千円とか五千円とか貰えるらしいよ。いいよなあ美人な男の子は。」「ちょ、くろさん、俺の可愛い弟くんにそういうこと言うのはやめてくださいよ。」蒼ちゃんは宥めようとしたけど颯介の目が怒るのがあたしにはありありと見えて次の瞬間颯介は彼にグラスの水をぶっかけていた。「おまっ何するんだよお。」と呂律の回らない喋り方をして、「あー。」と蒼ちゃんは溜め息のような言葉をもらした。あたしは何もせず何も言わずソファーのところでちんまりと彼らを見ているだけ。蒼ちゃんは「颯介ごめんな。」と言ったあと、「くろさん今のはちょっとだめですよ。言っていいことと悪いことがあるんですから颯介に謝ってください。それで風呂入って酔い覚ましてきてください。」と言った。空のグラスを持った颯介は身体を小刻みに震わせながら怒りに満ちた顔で彼を見ていて、「ああごめん、失礼な発言をいたしました。」と彼がへらへらと言うと、「ちょ、くろさんそういう謝り方じゃないでしょ?」と困った顔をしてから「颯介、悪いけどこの人すげえ酔っ払ってるから大目に見てやって。でもほんとごめんな。」とその人の分まで謝った。「ん。」颯介は唇をとがらせて一応返事をすると空のグラスをキッチンに置いてリビングを出て行った。あたしはそれを見ていて蒼ちゃんってなんていい人なんだろうって、このくろさんとかいう人はなんとロクデナシにタイミングが悪いんだろうって思って、ねえ蒼ちゃん聞いてよあたし今日蒼ちゃんとの子どもをおろしてきたのって大きな声で言いたくなった。蒼ちゃんの傷ついている顔を見たくて、そうすることで蒼ちゃんがあたしを忘れないであたしを一生心に刻んでいてほしくて。

 蒼ちゃんが仕事に出かけていって玄関の扉が閉まる。その音を聞いて意識を手放していこうとするとき部屋の扉が開く音がして、眠たくって忘れ物を取りに来たのだろうと目を瞑ったままでいた。でも、「姉ちゃんいい?」と声がして蒼ちゃんではなく颯介なのだと分かって、「んー?」と半分意識を飛ばして返事をした。「姉ちゃん中絶したの?」というのが夢の中で聞こえてぽかぽか眠りかけたけどその意味を解読した脳ははっと目を開けて、「え?」と聞き返して颯介と目が合った。「鍵借りようと思って鞄探ったときに領収書が残っているの見つけちゃって。」颯介は悲しい顔をしていたけどあたしは知られてしまったのを現実と受け止められずに瞬きを何回かしたけど目の先に広がっている景色は同じで、「蒼ちゃんには言わないでね。」と空白ののちに言った。「なんで?蒼さんとの子じゃないの?」と悲しそうにしている颯介はなんで悲しそうなんだろう。「そうだよ。」「じゃあなんで言わなかったの。」颯介は弟でしかも性的ないじめにあって高校中退とかいう訳ありな感じで颯介の前では姉ぶっていなければいけないように思うのに、「産んでって言われるのがこわかったから。」と答える寝起きの口は正直だ。「じゃあなんで避妊してなかったんだよ。」颯介の顔がぐにゃんと歪んで変だ。「なんでだろうなあ…。」と言ってあたしは止まった。たぶん、蒼ちゃんは子どもができてもいいって思っていたから。でもあたしはなんでなんだろう。「分からないなあ。」と笑うと、それに反して颯介は「やめてくれよおおお。」と叫んだ。広くはないけど蒼ちゃんが広い家に住みたいと言って選んだ部屋にその叫び声が響き渡って、それから颯介は「俺、姉ちゃんのことが好きなんだよおお。」とさめざめと涙を流した。何それ何かがおかしい。今自分がどんな絵本のどんなページの中にいるのかがよく分からなくて、「あたしも颯介のことは好きだよ?」と言ってみると、「そういうことじゃなくて。違うんだよそういうことじゃないんだよ。」と颯介は息を荒くするといまだベッドの中にいるあたしの口を塞いだ。柔らかいなんだこれあたしよりも柔らかいぽよんとした唇の感触があってそのあと柔らかい舌が入ってくる。「なんで。」口をふさがれていて上手く声にもならないけど小さな声で抵抗すると、「俺は姉ちゃんが好きだからだよ。」と顔を少し離して「ごめんごめん姉ちゃん。でも蒼さんとつけないでやってたんでしょ?そんなのさあ駄目だよ。」とズボンを脱いでパンツを脱いで屹立したちんこをあたしに向けた。そのちんこは蒼ちゃんのそれより大きいぐらいでぎょっとしたけどまじかよふざけんなよ何のエイプリルフールだよもしくはトリックオアトリートかお菓子をあげなかったからいたずらしてんのかって思うけど、でも結局のところあたしはあたしがどうでもよくて颯介が布団を捲ってあたしのショートパンツとパンツを脱がせてあたしの穴にちんこを入れようとするのを見ていた。不思議だ。止めた方がいいのかもしれなかったけどなんだかそうする気にもなれなくてそれより「前に高校で何されてたの?」という質問が浮かんだ。今まで触れてこなかったことの封をふっと切ってみるとあたしに跨がりかけたまま颯介は動きを止めて「色々えぐいやつだよ。」と苦笑いした。「色々えぐいやつって何。」そう尋ねてみるあたしは颯介がこんなことをして踏み込んできたぶん颯介の池の底も覗いてみたいと思ったのかもしれない。「ちんこ舐めさせられたり入れられたり馬鹿みたいな言い方だけど何人かでレイプされて写真撮られたり色々だよ。そりゃ嫌になるでしょ高校やめたくなるでしょ本当男子校なんか入らなきゃ良かったよ。」自嘲的な笑い方をしてまだ入れていないちんこをあたしに向けたままそんな話をしているのが変だった。手を伸ばせばそこにあったちんこを指で弾くと「あっ。」と反応されたのが意外だった。現に今あたしを襲おうとしているからそうなのだろうけどあたしも颯介もぐちゃぐちゃだなおい。「そんなことされたのに颯介はあたしにそんなことしようとするの。」意地悪を言ってみると颯介は「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。」と頭を抱えて悲鳴をあげるようにした。可哀相に。なんてこの子は脆いんだろう。ひび割れかけていたのが最後の一突きで砕けてなくなってしまいそうだった。「ごめんなさいごめんなさいだって僕は。」と俯いた颯介の頭を撫でてあげてだって僕はなんなのかが分からなかったけど、「颯介は女の子としたことある?」と残酷かもしれない質問を投げかけると颯介は俯いたまま、「あるわけないじゃん。でも童貞っていうのかなこれって。」と少し笑った。そんな会話をしているうちに颯介のちんこはしょんぼりしかけていて、あたしは無言で颯介をベッドに座らせると膝をついて床に屈んでちんこを口に含んだ。「え、姉ちゃん何してんの。」そもそも襲ってきたのは颯介のくせに驚いた様子でひっぺがされて、見上げて、「颯介がされたこと代わりに姉ちゃんがやったげる。だから今日で嫌だったこと忘れよう。」と言うと、「何それ?」と颯介は泣きそうなように顔をしかめた。またちんこを口に入れて優しく吸うと萎えかけていたそれはすぐに膨らんであたしの口をぱんぱんにした。ふあっ。一旦吐き出してから唇に亀頭をくっつけて顔を上下に動かしていった。あたしは下手くそだったと思うけれど少しそうしているだけで、「駄目、出そうになる。」と苦しげに言われたから、「駄目だよ。やられたこと全部やり直さないとリセットできないよ。あたしと颯介どっちが上になるのがいい?あたしそんな上手く動けないと思うけど。」と聞くと颯介は躊躇った目をただよわせてから、「僕が上になるやつ。」と答えた。ベッドの上で颯介はあたしに跨ってまんこの入り口を探してうろうろしていたから、「ここだよ。」と教えてあげて指で両端を引っぱって入り口を見せてあげた。「あ。」と言って颯介は先端を入り口に当ててゆっくり挿入した。奥まで入るとどうしていいのか分からなくなったみたいに止まったから、「上半身全体じゃなくて腰だけを動かす感じで動いてみて。姉ちゃんのことは気にしなくていいから好きにしていいよ。」と助言してさしあげると、「あ、うん。」と颯介はぎこちなく動いた。あたしの中に身体を入れて裸で動いている颯介は変で二つと二つの目が合っていることがときどき恥ずかしくなってか目線がずれる。「僕、何かに入れたの初めてだからよく分からないけど。」なんて言い訳をしながら動いているうちにそうするのが上手くなってきたのか颯介の息が荒くなってきて我慢するような苦しそうな顔つきになる。「好きなだけ動いていいよ。」と言うと、「もう無理。」と颯介はひいひい可愛い声を出した。「じゃあ出していいよ。」今まで見たことのなかった颯介の顔を見ていてどうしてこんなことをしているのか不思議になる。あたしは颯介を助けたかったのかあたしの泥沼と颯介のそれを掛けあわせたかったのか結局なんでもいいのか分からないけど、「あっごめん姉ちゃん出る出る出る。」と叫ぶようにして颯介はあたしに体重をかけて覆いかぶさってきたからこれで颯介が救われたらいいのにと思った。

 

 あたしはソファーのすみっこで体育座りをしていてソファーを背にその真ん中ぐらいのところで座った蒼ちゃんはあのお気に入りのバライテイ番組を観ていかにも面白そうに笑っていた。掛け時計を見るともうすぐこの番組の終わる十一時前で颯介はベランダから飛び降りているということがなければ今リビングの隣の部屋に籠もっていてこれぐらいの遅い時間になると颯介は遠慮してかこっちの部屋まで出てこない。後ろに座っているということは蒼ちゃんにはあたしが見えていないということでそれはなんて便利なんでしょうねえってことであたしは全然テレビを見ておらずリビングを見渡していてこの部屋を借りたころはインテリアを色々凝って揃えようなんて話していたのに、安物のダイニングテーブルと椅子とローテーブルとソファーとカーペットを買ったらそれでもうお腹一杯になったのか細かな雑貨的な装飾品は何もなくてただ生活するのに困らない部屋止まりになっていて造花の花ひとつ飾り気のあるクッションひとつないんだなあと考えたら実用的過ぎる生活をしていたことが悲しくなった。そのうち番組は終わって短い次回予告が流れ、「ねえ蒼ちゃん。」と呼ぶ。「なーにー?」蒼ちゃんはこっちを見ないまま両手を上にかかげて伸びをしてそのときあたしが、「別れようか。」と言ったものだから宙にかかげたまま蒼ちゃんの腕が止まった。蒼ちゃんはそれをゆっくり下ろすと、「なんで?」と尋ねてそのとき空気が止まるような、ううんあたしの周りの空気だけ止まってあたしだけが死んでしまえと思うような気持ちになってやっぱり嘘っぴけろけろけろっと言ってしまいたかったけど、「一緒にいるのが苦しいから。」と答えると、「はははっ。」と蒼ちゃんは笑った。どうして笑われたのか分からないけど蒼ちゃんはずっと前を向いたままでいて、「俺はちょこのこと好きだよ。」と言った。あたしも蒼ちゃんが好きだよと蒼ちゃんがあたしを好きな以上にあたしは特別に蒼ちゃんを好きなのかもしれないとけろけろけろしても良かったのかもしれないけど黙ったままでいると、「でもそれから一緒にいても仕方ないよなあ。」と言ってそれからしばらくあたしたちは黙ったままでいた。後ろに座っていると蒼ちゃんの日焼けした首が見えてそれに噛み付いて蒼ちゃんを殺してしまいたかった。そのうちやっと蒼ちゃんは振り向いてそのとき赤い目をしていてあたしのために泣いてくれるなんてなんていいやつなんだろうって抱き締めたくてでもそうしなくて視線を注いでいるだけでいて、あたしの白い目と蒼ちゃんの赤い目が混じってなにかトリップできたら良かったのだけどあたしと蒼ちゃんはあまりに別々の人間過ぎて、「お別れの記念にコーラで乾杯しようか。」と言われた。あたしが返事をする前に蒼ちゃんは立ち上がってリビングに向かってコップふたつぶんのコーラを注いだ。ひとつのカップをあたしに差し出してグラスを合わせて乾杯をする。蒼ちゃんはそれを一気飲みしたからそうするのが礼儀のように思えて無理をして一気飲みすると炭酸が喉に染みてひりひりひりしてとても痛かった。」

 

 

 

 蒼ちゃんが仕事に出かけていって玄関の扉が閉まる。その音を聞いて意識を手放していこうとするとき部屋の扉が開く音がしてでも眠たくって、忘れ物を取りに来たのだろうと目を瞑ったままでいた。でも、「姉ちゃん。いい?」と声がして蒼ちゃんではなく颯介なのだと分かって、「んー?」と半分意識を飛ばして返事をした。「姉ちゃん中絶したの?」というのが夢の中で聞こえたぽかぽか眠りかけたけどその意味を解読した脳ははっと目を開けて、「え?」と聞き返して颯介と目が合った。「鍵借りようと思って鞄探ったときに領収書が残っているの見つけちゃって。」颯介は悲しい顔をしていたけどあたしは知られてしまったのを現実と受け止められずに瞬きを何回かしたけど目の先に広がっている景色は同じで、「蒼ちゃんには言わないでね。」と空白ののちに言った。「なんで?蒼さんとの子じゃないの?」と悲しそうにしている颯介はなんで悲しそうなんだろう。「そうだよ。」「じゃあなんで言わなかったの。」颯介は弟でしかも性的ないじめにあって高校中退とかいう訳ありな感じの弟で颯介の前では姉ぶっていなければいけないように思うのに、「産んでって言われるのがこわかったから。」と答える寝起きの口は正直だ。「じゃあ産みたくないならなんで避妊してなかったんだよ。」颯介の顔がぐにゃんと歪んで変だ。「なんでだろうなあ…。」と言ってあたしは止まった。たぶん、蒼ちゃんは子どもができてもいいって思っていたから。でもあたしはなんでなんだろう。「分からないなあ。」と笑うと、それに反して颯介は「やめてくれよおおお。」と叫んだ。広くはないけど蒼ちゃんが広い家に住みたいと言って選んだ部屋にその叫び声が響き渡って、それから颯介は「俺、姉ちゃんのことが好きなんだよおお。」と言ってさめざめと涙を流した。何それ何かがおかしい。今自分がどんな絵本のどんなページの中にいるのかがよく分からなくて、「あたしも颯介のことは好きだよ?」と言ってみると、「そういうことじゃなくて。違うんだよそういうことじゃないんだよ。」と颯介は息を荒くするといまだベッドの中にいるあたしの口を塞いだ。柔らかいなんだこれあたしよりも柔らかいぽよんとした唇の感触があってそのあと柔らかい舌が入ってくる。「なんで。」口をふさがれていて上手く声にもならないけど小さな声で抵抗すると、「俺は姉ちゃんが好きだからだよ。」と顔を少し離して颯介が言って、「ごめん、ごめん姉ちゃん、でも蒼さんとつけないでやってたんでしょ?そんなのさあ駄目だよ。」と言いながらズボンを脱いでパンツを脱いで屹立したちんこをあたしに向けた。そのちんこは蒼ちゃんのそれより大きいぐらいでぎょっとしたけどまじかよふざけんなよ何のエイプリルフールだよもしくはトリックオアトリートかお菓子をあげなかったからいたずらしてんのかって思うけど、でも結局のところあたしはあたしがどうでもよくて颯介が布団を捲ってあたしのショートパンツとパンツを脱がせてあたしの穴にちんこを入れようとするのを見ていた。不思議だ。止めた方がいいのかなと思ったけれどなんだかそうする気にもなれなくてそれより「前に高校で何されてたの?」という質問が浮かんだ。今まで触れてこなかったことの封をふっと切ってみるとあたしに跨がりかけたまま颯介は動きを止めて「色々えぐいやつだよ。」と苦笑いした。「色々えぐいやつって何。」そう尋ねてみるあたしは颯介がこんなことをして踏み込んできたぶん颯介の池の底も覗いてみたいと思ったのかもしれない。「ちんこ舐めさせられたり入れられたり馬鹿みたいな言い方だけど何人かでレイプされて写真撮られたり色々だよ。そりゃやんなるでしょ高校やめたくなるでしょ本当男子校なんか入らなきゃ良かったよ。」自嘲的な笑い方をしてまだ入れていないちんこをあたしに向けたままそんな話をする颯介は妙だった。ちんこを指で弾くと「あっ。」と反応されたのが意外だった。現に今あたしを襲おうとしているからそうなのだろうけどあたしも颯介もぐちゃぐちゃで、あたしは可哀相ではないかもしれないけど颯介は可哀相だった。「そんなことされたのに颯介はあたしにそんなことしようとするの。」意地悪を言ってみると颯介は「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。」と頭を抱えて悲鳴をあげるようにしたから可哀相になった。なんてこの子は脆いんだろう。あたしが颯介を拒否したらひび割れかけていたのが砕けてなくなってしまいそうだった。

 

 

 蒼ちゃんが仕事に出かけていって玄関の扉が閉まる。その音を聞いて意識を手放していこうとするとき部屋の扉が開く音がしてでも眠たくって、忘れ物を取りに来たのだろうと目を瞑ったままでいた。でも、「姉ちゃん。いい?」と声がして蒼ちゃんではなく颯介なのだと分かって、「んー?」と半分意識を飛ばして返事をした。「姉ちゃん中絶したの?」というのが夢の中で聞こえたぽかぽか眠りかけたけどその意味を解読した脳ははっと目を開けて、「え?」と聞き返して颯介と目が合った。「鍵借りようと思って鞄探ったときに領収書が残っているの見つけちゃって。」颯介は悲しい顔をしていたけどあたしは知られてしまったのを現実と受け止められずに瞬きを何回かしたけど目の先に広がっている景色は同じで、「蒼ちゃんには言わないでね。」と空白ののちに言った。「なんで?蒼さんとの子じゃないの?」と悲しそうにしている颯介はなんで悲しそうなんだろう。「そうだよ。」「じゃあなんで言わなかったの。」颯介は弟でしかも性的ないじめにあって高校中退とかいう訳ありな感じの弟で颯介の前では姉ぶっていなければいけないように思うのに、「産んでって言われるのがこわかったから。」と答える寝起きの口は正直だ。「じゃあ産みたくないならなんで避妊してなかったんだよ。」颯介の顔がぐにゃんと歪んで変だ。「なんでだろうなあ…。」と言ってあたしは止まった。たぶん、蒼ちゃんは子どもができてもいいって思っていたから。でもあたしはなんでなんだろう。「分からないなあ。」と笑うと、それに反して颯介は「やめてくれよおおお。」と叫んだ。広くはないけど蒼ちゃんが広い家に住みたいと言って選んだ部屋にその叫び声が響き渡って、それから颯介は「俺、姉ちゃんのことが好きなんだよおお。」と言ってさめざめと涙を流した。何それ何かがおかしい。今自分がどんな絵本のどんなページの中にいるのかがよく分からなくて、「あたしも颯介のことは好きだよ?」と言ってみると、「そういうことじゃなくて。違うんだよそういうことじゃないんだよ。」と颯介は息を荒くするといまだベッドの中にいるあたしの口を塞いだ。柔らかいなんだこれあたしよりも柔らかいぽよんとした唇の感触があってそのあと柔らかい舌が入ってくる。「なんで。」口をふさがれていて上手く声にもならないけど小さな声で抵抗すると、「俺は姉ちゃんが好きだからだよ。」と顔を少し離して颯介が言って、「ごめん、ごめん姉ちゃん、でも蒼さんとつけないでやってたんでしょ?そんなのさあ駄目だよ。」と言いながらズボンを脱いでパンツを脱いで屹立したちんこをあたしに向けた。そのちんこは蒼ちゃんのそれより大きいぐらいでぎょっとしたけどまじかよふざけんなよ何のエイプリルフールだよもしくはトリックオアトリートかお菓子をあげなかったからいたずらしてんのかって思うけど、でも結局のところあたしはあたしがどうでもよくて颯介が布団を捲ってあたしのショートパンツとパンツを脱がせてあたしの穴にちんこを入れようとするのを見ていた。不思議だ。

 

 洗面所で蒼ちゃんがドライヤーをしている音が聞こえる。あたしはリビングのソファーの端で体育座りをして、蒼ちゃんがお風呂に入る前につけていったバラエティ番組を見るともなしに眺めている。テレビの中では芸人さんが笑っているけれど、蒼ちゃんはこの番組が好きで、今回も神回だなんて言って楽しそうに観ているけれど、蒼ちゃんがいなければあたしはこの番組をわざわざつけたりしないだろう。短い蒼ちゃんの髪はすぐに乾いてもうすぐあたしのところに戻ってくるのだろう。それで、この番組を最後まで観たあとに部屋であたしを抱くのだろう。部屋着のショートパンツの上に置いていたビールを持ち上げて一口飲むと、またひとつあたしが薄れてよく分からなくなった。「よっしゃ十一分で上がれたわ。どう?なんか面白いことあった?」蒼ちゃんがリビングに顔を出して、「別に。」と首を振ると、「そっかあ別になかったかあ。じゃあいいやあ。いいタイミングに風呂入ったな俺。」と満足そうにした。あたしの横に腰を下ろして、「ちょっとちょうだい。」とビールを奪う。蒼ちゃんは缶を持ち上げて仰いだものの顔をしかめて、「子ども舌の俺にはいかんなあ。やっぱりコーラにするわ。」と立ち上がった。冷蔵庫で冷やしていた二リットルのペットボトルからコップに注いで、「やっぱりコーラだよなあ。」とひとりごちるのが聞こえた。それから、リビングのすみっこでちんまり座ったかと思うと、時おりコップに口をつけながらうろうろ歩き出して落ち着きがない。やがてソファーの隣に座ると、「がっはは。」とテレビに向かって笑い声をあげた。あたしは大学生で、三つ年上で建築現場で働いている蒼ちゃんとは付き合って半年になる。広い家に住むのが夢だと蒼ちゃんが言ったから、それまで蒼ちゃんが住んでいた小さなアパートの家賃と両親が振り込んでくれるあたしの下宿代を足して同棲を始めた。それほど広いというわけではないけれどリビングと二つの部屋があるこの家があたしたちの巣だ。「今週もクソ面白かったな。また明日観よ。」蒼ちゃんはテレビを消すとあたしの頬にキスをして、それから顎をつかんで唇に触れるだけのキスをした。静まった部屋の中であたしは何者でもなくただ彼のものであるような安心感があった。そして蒼ちゃんはあたしを部屋に連れていくとベッドに座らせて、自分は立ったままキスをしてキャミソールの下から手を入れて胸を触った。目を開けると蒼ちゃんの目は閉じていて、部屋の扉がきちんと閉まっているのを視線を流して確かめた。蒼ちゃんはそれから少しあたしの身体を触ると、服を脱いであたしをベッドに寝かせて挿入した。厚い胸板に手を伸ばして触れる。「固い。」と呟くと、蒼ちゃんは膨らみの少ないあたしの胸に触れて、「柔らかい。」と言った。それは蒼ちゃんの嘘で優しさかもしれなかったけど、笑顔を向けるとそれ以上何も言わないであたしの上になった蒼ちゃんが動くのを見ていた。水を得た魚のように蒼ちゃんはぐんぐんと動いて、「痛くない?」とときどきあたしを気づかった。頷くと、「なら良かった。」と頭を撫でられてまた突かれだす。でも蒼ちゃんはあたしが気持ち良がってはいないことを分かっていて、気持ちいい?とは尋ねない。蒼ちゃんは腰を振りながら苦しげに顔を歪めたりするのは気持ちいいからなのだろうけど、あたしにあるのは突かれている感覚だけだ。だけど蒼ちゃんを近くに感じられるからこうするのは嫌いではなくて、毎晩蒼ちゃんに抱かれるのはどちらかといえば好きなことだった。本当は声を出したり感じているふりをした方がいいのかもしれなかったけど蒼ちゃんと付き合うまで処女だったあたしはそうしたやり方が分からなくて、目を開けて見上げている。蒼ちゃんが動いた拍子に汗が飛んできてあたしの頬に着地したのを指で拭おうとしたとき、それに気づいていない蒼ちゃんに両手を繋がれ見下ろされた。手と手を繋いで局部と局部を繋いでいるからあたしが蒼ちゃんに流れ出ていって蒼ちゃんがあたしに入ってくるようだった。でも蒼ちゃんが激しく動くのにしたがってベッドが揺れるものだから、その音が伝わっていないかが気になって壁へと視線を動かした。リビングを隔ててその隣の部屋には弟の颯介がいる。もともとはあたしと蒼ちゃんの二人で暮らしていたのだけど、高校を中退した颯介はちょっと環境を変えてみた方がいいんじゃない?という名の厄介払いで母親と再婚相手が暮らす家から追い出され、母親はあたしが一人暮らしをしていると思っているし下宿代は出してもらってるしで強く言えず、何より蒼ちゃんが俺は別にいいよと本当に別に良さそうに言ったので春頃から家で暮らすようになった。もとはあたしと蒼ちゃんがそれぞれ部屋を持っていてそれぞれのベッドがあったのだけど、あたしの部屋を颯介に譲って蒼ちゃんのベッドで一緒に眠るようになった。これはずっと続くことじゃなくて颯介が自分なりの道を見つけるまでということだったけれど、あたしは蒼ちゃんを大好きなわりに醒めているところがあって、颯介がそれを見つけて家を出ていくのが先なのか蒼ちゃんとあたしが終焉を迎えるのが先なのか分からないと思う。蒼ちゃんと同じベッドで眠るようになってから蒼ちゃんとあたしが違うんだということを喜びより悲しいものに感じることが増えた。身体が大きくて声も大きくて大雑把で細かいことを気にしなくて明るくて優しい蒼ちゃんのあたしと反対のところが大好きでトランプの表裏みたいにあたしたちがきっかり反対になっているところを発見するのが前は嬉しかったのに今はそれがあたしを少し悲しくする。「あーだめだいきそういっていい?」繋いでいる蒼ちゃんの手は熱くて額に汗をかいているのにあたしの身体は温まっていなくて冷たいんだろう。頷くと、「あーいくいくいくいくよ。」と喘ぎ混じりに言ってあたしの膣内に蒼ちゃんを射精した。蒼ちゃんはゴムをつけなくて、話す友達がいないあたしにはそれが普通なのかそうでないのか分からないけれど、蒼ちゃんはときどき女の子も男の子も両方ほしくて男の子が産まれておっきくなったら一緒にバイクで走り回りたいみたいな話をしていたから、いつかあたしが妊娠することがあれば蒼ちゃんと結婚するのかもしれなかった。でもそれは絵本の一ページのように絵空事であたしの身に起こるかもしれないこととしては感じられなかった。蒼ちゃんが身体を浮かせて局部を抜いてあたしから離れていく。待ってと引き留めたくなるけど蒼ちゃんが立ち上がってティッシュで汚れを拭くのを見ている。「ちょこも拭くよ。」と布団を捲って精液の垂れたあたしの股も拭ってくれる。それから蒼ちゃんは部屋の隅に立ててあるギターに目をやって、「弾いてから寝たいけど眠いから今日はもういいや。」と呟くとパンツを穿いただけの裸でベッドに潜り込んだ。「ちょこおやすみ。ちょこは服着ないと風邪引くからちゃんと着ろよ。」と言って目を瞑る。あたしの名前は千代子なのだけど蒼ちゃんはあたしをちょこと呼ぶ。ちょこちょこと呼ばれるたび自分が自分ではない別の生き物になって気がする。蒼ちゃんはまっすぐ上を向いて、でもシングルベッドだから身体を控えめに大の字にして眠る。そして建築現場で肉体労働をして疲れているからなのか元々なのか分からないけれど三分もしないうちに眠りに落ちてしまう。あたしは寝つきが悪いので蒼ちゃんがあたしを置いて行くのを見届けてからシャワーを浴びに行くのが常だ。照明に明るく照らされた横顔をしばらく眺めていると今日もすぐに寝息を立てだして、その頬にキスをするとベッドを出た。

 その晩もなかなか寝つけなくて蒼ちゃんが眠っている電気を消した部屋を出てリビングに向かうと、二時頃だったけれど颯介のいる部屋から明かりがこぼれているのが分かった。ノックをして、「入っていい?」と声をかけると、「いいよ。」とくぐもった声が返ってきて扉を開けると、椅子の上で体育座りをしていた颯介がこっちを見て、「眠れないの?」と聞いた。「眠れないからホットミルクでも飲もうかと思ったんだけど一緒にどう。」と尋ねると、「ご一緒するよ。」と颯介は立ち上がった。

 お母さんはお喋りだけどあたしも颯介もあまり話をしない。ホットミルクのマグカップをローテーブルに置いて、あたしがソファーに座って颯介がカーペットに座った。颯介がさっき部屋で読んでいた本をそのまま持ってきていて読書を再開し始めたから、あたしも物音を立てないように部屋に戻って読みかけの本を持ってきた。蒼ちゃんは少年漫画は好きだけど本は読まなくて、颯介は天文系の本があたしは小説が好きだ。温かいミルクをすすりながらときどき颯介の白い首を見た。颯介とあたしは雰囲気が似ているとはよく言われるけど、颯介は背はまあまああるわりに華奢で女の子みたいな綺麗な顔立ちをしていて繊細で壊れやすいガラスみたいな感じがする。颯介が二年生で高校を中退したのは学校でいじめを受けていたからだった。男子校でフェンシング部に入っていた颯介は部活の三年生に性的ないじめを受けていたのだという。でもこれは母親から聞いたことであって颯介からその話を聞いたことはなかったから、実際のところ颯介が何をされていたのかをあたしはよく知らない。そんなことがあったから余計に颯介を繊細に感じるのかもしれないけど、でも明日起きて窓を開けてベランダの下に飛び降り自殺した颯介の死体があったとしても理解できてしまうかもしれない。

 

あたしは早起きが苦手で大学の講義を極力二限からしか入れないようにしているので、蒼ちゃんの朝はあたしの朝よりも早く始まる。まだベッドでまどろむなか意識のはしっこでアラームが鳴って何度目かでそれを止めた蒼ちゃんがベッドから出て行くのを感じた。あたしは目を瞑ったまま蒼ちゃんがトイレに行って歯を磨いて顔を洗っているのだろう物音を聞いていて、そのうち部屋に戻ってきてカーキ色のTシャツと黒いパンツを身につけるのを薄目で見た。行ってらっしゃいを起きて言えばいい話なのだけど、家を出て行ってしまう寂しさのために薄目のままベッドの縁から手を垂らすとそれに気づいてくれた蒼ちゃんが手を触ってくれて、「ちょこはまだ寝てなよ。」と言うと部屋を出て行って玄関の扉を閉められる音がした。再びあたしはまどろみに落ちていって、九時になってアラームが鳴るとそれを止めてゆっくりと上体を起こした。 リビングに出るとフレンチトーストのいい香りがして、キッチンに立っていた颯介に「おはよう。」と声をかけられた。おはようを返してトイレに行ってから洗面台に向かう。水を顔に浴びせるとひやりと冷たい感覚が肌に跳ねた。あたしが一人暮らしをしているということで家にたらい回されてきたはずが、あたしと他人との暮らしに入り込むことになったのだからむしろ颯介は気の毒ではあったのだけど、颯介なりにそれを悪いと思っているのか彼が家に来てから洗濯干しとお風呂洗いとゴミ出しは彼の仕事となり、ついでに颯介とあたしの分の朝食まで作ってくれるので、部屋を譲った不便を感じること以外は楽になってしまっている。洗面所から戻るとダイニングテーブルにフレンチトーストと目玉焼きとミルクが並んでいて、自分がお母さんに世話を焼かれている小さな子どもであるような気分になる。颯介の作る目玉焼きは黄身が白っぽくなっていないでオレンジ色をしていてきれいだ。「美味しそうに焼けてるね。」と言うと、「僕は大したものは作れないよ。」と颯介は遠慮がちに微笑んだ。目玉焼きの中央に箸を入れると半熟に焼かれていた卵がじゅわっとこぼれて白い皿に色をつけた。不思議だ。颯介といるとき蒼ちゃんといるとき現実感がなくて生きていないような気分になる。あまりにも楽に息をしてあまりにも楽に食事をとるから、これは夢なのかもしくはあたしはもう死んでいるような気さえする。「ねえ、駅の近くに新しいカフェができているのを見つけたよ。」無理に喋る必要がないからあたしたちはあまり話をしないけれど、ふと昨日の帰りに見つけたものを思い出して喋る。「へえ。」と颯介は顔をあげ、「ケーキが美味しそうな可愛い感じのカフェだった。」とあたしは説明を補足する。蒼ちゃんはお洒落なカフェより居酒屋や焼肉屋の方が好きなので、「一緒に行く?」と尋ねると、「行ってもいいよ。」と颯介は答えた。  二限から大学に行って九十分の講義を受けると昼休みになるものの、まだお腹が空かないあたしは飲み物だけを自販機で買って次の講義がある教室に早々と移動した。百人二百人は学生を収められそうな大教室もまだ生徒はまばらで、ところどころでお弁当を開いている学生がいるぐらいだった。りんごゼリーのジュースをストローで吸いながら小説のページを捲る。こうしているとひとりのあたしはとてもひとりのようで蒼ちゃんとか颯介のことを思い出す。さっきまで汗を流して何かの建物を作っていたのであろう蒼ちゃんも今は昼休みでスーパーかコンビニで買ったお弁当かカップ麺かを食べているのだろうし、颯介は近所のコンビニでレジ打ちでもやっているのだろう。大学に講義を受けに来ていてすらあたしが受動的なのに変わりはなく、生きているのにやはり生きている気がしないのだった。周囲を見渡しても移動している生徒はまだ少なく教室はがらんどうで、何列か前に座っていた三人組の女学生がお弁当を広げながらきゃっきゃと話をしているのが雑音としてよく耳に入った。あたしは透明であたしに彼女たちは見えているのに彼女たちにあたしは見えていないのかもしれない。もしくは彼女たちの靴はぴったり床にくっついているのにあたしのパンプスは何ミリ何センチか浮いていて浮遊しているのかもしれない。

巨大なオーブンの中でじりじりとローストされているようだ。急いで飛び出してきたのでいつもは持ち歩いている日傘を忘れてきてしまったのが痛かった。陽が炎となって身体を焼いていくみたいな炎天下で、地図アプリを起動させたスマホを手に蒼ちゃんの会社への道を探していた。土曜日は大学に行かない日なので早起きして蒼ちゃんにお弁当を作ったのだけど、前に話していたカフェに颯介と行こうと準備をしていたとき、お弁当を持って行くのを忘れたと謝罪の電話がかかってきた。蒼ちゃんの勤めている会社は家から歩いて十分かからないぐらいのところにあって、普段は現場仕事をしている蒼ちゃんだけどたまたま事務所にいるとのことでお弁当を届けに行くことになったのだった。ただ家の近所といえどあたしは方向音痴で初めての場所に行くのが得意ではなくて、少々迷いながら不安な足取りで進んでいってようやく会社のあるらしい建物に辿りついたころには背中にびっしょり汗をかいていた。門のあたりには誰もいないようで敷地を進んでいくと建物の入り口にインターホンがついていたので、大学生のあたしが来るには場違いであるように引け目を感じつつそれを押した。戸を開けられて出てきた女の人があたしを見て一瞬首をかしげるような表情をしたあとに、「こんにちは、何の御用でしょうか?」と半分ぐらいの笑顔を作って尋ねた。その女の人越しに戸の向こうの事務所の内側が覗いていて、初めて見る作業着姿の蒼ちゃんがあたしの知らない若い女の人と笑っているのが見えた。金色に近い明るい髪をおろした女の人はすごく派手っぽかったけど綺麗な人に見えて、蒼ちゃんがあたしと一緒にいるときには見せないような楽しそうな笑い方をしていて心がきしむ。作業服を着た男の人たちがいる中であたしの知らない蒼ちゃんがあたしの知らない女の人と楽しそうにしている。用を告げるより先にあたしを見つけた蒼ちゃんが、「ちょこー!」と大声を張り上げたので中の人たちが一斉にあたしを見た。蒼ちゃんの馴染みの仕事仲間だろうにあたしは知らない人たちに目を向けられて緊張がのぼって身体が固くなる。「何それウケるちょこって犬?」あの女の人の声が聞こえて、戸を開けてくれた女の人が戻っていこうとするのが目の端に映って、「あっすみませんありがとうございました。」と慌てて礼を言う。馬鹿にされている。あたしは犬じゃない。蒼ちゃんは急いで走ってくると、「せっかく作ってくれたのにごめんな。わざわざ届けてくれてありがとう。暑かったろ。ごめんな。」とあたしの頭に手を載せて撫でた。汗で濡れているから頭には触らないでと思うけど、「平気。」とお弁当を入れた紙袋を差し出す。「ササの彼女?」後ろに座っていた男の人から声がかかって、蒼ちゃんは振り向くと「そうですよ!いやあ今日は弁当作ってもらったのに忘れてきちゃってもうほんと申し訳ないっすよ届けてもらっちゃって。」と大きな声で返事をした。冷やかしの野次が飛んできて蒼ちゃんが大声で言い返すのを見ていていつのまにか浮かべていた愛想笑いはあたしの口角を上げたままぴったり閉ざしていて窮屈だった。蒼ちゃんが馴染んだ景色の中であたしだけが異物である感じがして、気になってあの女の人をちらりちらりと見たけどそのたびに目が合ってよく分からないけれど彼女はあたしに怒っているのかもしれなかった。彼女は蒼ちゃんのことを好きなのかもしれなくて、あたしより彼女の方が蒼ちゃんに似合っているのかもしれないとちらりと考えた。しばらくするとやっと蒼ちゃんがあたしを見て顔を近づけて、「ごめんね汗かいただろうから冷たいお茶とか飲んでく?」と聞いた。ほんとはのどが渇いていたけど首を横に振って、「大丈夫。」と答えて事務所を後にする。閉じた扉に背を向けて歩きだし、事務所の敷地内を出ていって颯介との待ち合わせ場所に向かおうとするけれどくらくらした。

颯介と待ち合わせをしていたのは駅のそばの広い書店ではあったけれど、どうせ天文学系の本のコーナーにいるのだろうと見当をつけて向かうとその通り颯介の後ろ姿が見えた。170センチは越えているだろうに華奢な颯介の身体はキリンのように細長くて、瞬きする間に本棚に埋もれて消えてしまうんじゃないかと感じた。「お待たせ。」颯介は振り返ると一定の距離を保ったままあたしをじいと見て、「顔色良くないよね?真っ白じゃない?大丈夫?」と尋ねた。そうなのだろうか。エアコンのよく効いた書店に入った今はこれといって体調の悪さを感じなかった。なんとなく両頬を手で覆って確かめるようにしてみたけどそれで何が分かるでもなく、「平気だよ。でも外暑かったからかな。喉はすごく乾いちゃったから早くカフェに行こう。」と身体をくるりと回して踵を返した。 前に店外から眺めてケーキが美味しそうなカフェと思っていたのは、正確にはフルーツタルトを専門にしたカフェでそれぞれフルーツタルトと冷たい飲み物を注文した。店内を見渡すと女性客がほとんどでガテン系の蒼ちゃんを連れてこれば浮いたかもしれないし、コンビニスイーツを食べるみたいに勢いよく食べて旨かったけどすぐ無くなっちゃったよなんて言うかもしれなかったけれど、タルトをちまちまフォークで切って口に運ぶ颯介は別に浮いていなくてなんなら周りの女性客よりもおしとやかにさえ見えた。「さっきね。」と言いかけると颯介は顔を上げて表情だけで続きを促した。「蒼ちゃんが知らない人みたいで怖かったんだ。」「どういうこと?」と颯介が首を傾げる。「仕事仲間の人たちと仲良さそうにしてていつもの蒼ちゃんなんだけどちょっと違うくて、あと派手な美人っぽい女の人と楽しそうに話してるのが見えた。」タルトに載った色鮮やかなフルーツが綺麗だ。ゆっくりフォークを下ろしていくと底のタルト生地のところで引っかかって力をかけるとかすかに皿との摩擦音を鳴らして切れた。「要は嫉妬したってこと?」苦笑いして尋ねられて嫉妬と収められてしまうのは嫌な感じがしたしもっと大きなものであるような感じがしたけれど、「まあそうなのかな。」と言うと、「それに姉ちゃんが知らない人といるならまた違う感じがするのはそんなもんじゃないの。」と冷静に指摘されてそう言われればそうであるようなでも引っかかるようなでぐるぐるして面倒になって匙を投げた。あたしは蒼ちゃんに依存しすぎていてあたしの知っている蒼ちゃんが彼の全てであってほしいのかもしれないなんて馬鹿げている。「蒼さんは良い人だよ。」颯介は少し怒ったように言って、「そうだよ。」とあたしが頷くと空気は空白になってでも兄弟であるあたしたちにはむしろ空白こそが普通の空気だった。蒼ちゃんは颯介が来てからも変わらずセックスをしたりはするけれど颯介を嫌がる素振りをちっとも見せないすごく良い人で、蒼ちゃんにとっては人類皆兄弟みたいな感じなのかもしれない。でもあたしが蒼ちゃんと似ているところはひとつも見つけられなくて、あたしと颯介の方がずっと似ているところが多い気がした、それは当たり前のことなのかもしれないけど。タルトを三分の二ほど食べ進めたときに突然気持ち悪さが込み上げてきた。「ごめんちょっと。」口を手で抑えて視線でトイレを探すあたしに、「何どうしたの大丈夫?」と颯介が心配そうな声をかけるのが聞こえたけど返事をする余裕もなく奥のトイレに駆け込む。幸運なことに先客はいなくて個室に入ると手洗いのところに顔を近づけてもどした。なんて気持ち悪いのかあたしを巡っていく嫌悪感でぐらぐらする。胃からあがってくるものを吐き出しきって手で水をすくって口内を十分に洗うと、壁を背にしてお尻は床につけないようにして座り込んだ。日傘を差さないで日射しを浴びすぎたせいでやっぱり体調が悪くなっていたのかもしれない。天井を見上げて気持ち悪さを落ち着かせるとあの女の人と蒼ちゃんが笑っていた姿が宙に浮かんだ。ビデオのようなそれを打ち消さずに見上げたままでいて犬みたいな呼び方と言われたことを思い出す。あたしはちょこよ、あなたはどんな立派な名前を持っているのってふっと笑いがもれて、気持ち悪さが幾分収まったのを感じた。立ち上がって念のためにもう一度口をゆすいでから席に戻る途中ででもやっぱりこれは嫉妬よりもっと大きなものだろうと思う。

 

 夏の夜。リビングに三人が集まっているのに蒼ちゃんはテレビの前のカーペットのところでギターを弾いていて、颯介はダイニングテーブルの椅子の上であぐらをかいて本を読んでいて、あたしは蒼ちゃんの近くのソファーにかけて小説を捲っているもののあまりその内容が頭に入ってきていなくてときどき蒼ちゃんを盗み見るのだけど蒼ちゃんはそれに気付いていないような夜だった。蒼ちゃんは日中外で働いているせいか暑さに強くてエアコンをつけたがらないので、窓を全開にして扇風機を強にした部屋では扇風機の羽音とときどき外を人が通り過ぎていく音と、蒼ちゃんが自信満々に弾くギターの音で満ちていた。蒼ちゃんのギターが上手いのかあたしにはよく判断がつかないけれど蒼ちゃんはバンドを組んでいてたまにライブをしたりしている。あたしはそのライブを見に行ったことが一度あるけど、親しい人たちが客として集まったのだろうライブであっても舞台の上の蒼ちゃんは他人のようで、格好いいと女の子たちに拍手されるのは誇らしいよりずっと蒼ちゃんが遠くなるようだった。ギターを弾く蒼ちゃんが悦に浸っていてあたしを見ていないのを颯介が本に熱中していてあたしたちのことなんて気にしていないのを確かめて時おりそっとお腹を撫でた。ドラックストアの検査薬が陽性になって昨日産婦人科に行って分かったことだったけどあたしは妊娠していた。今は妊娠の五週だけど中絶するなら六週から九週までの初期がいいのだとお医者さんが言っていた。あたしにはそれほど時間がなくてそれを蒼ちゃんに告げるかすら迷っていた。あたしより遅い時間からコンビニのバイトに出る颯介にはバレてしまっていたけど今日は大学をずる休みして一日中ベッドにいて、その昼の間うるさかった蝉の鳴き声も今は止んでいて、あたしたちが三人いる光景の中で蒼ちゃんが指を動かすたびに音が奏でられでもそれが瞬く間に空気に浸透して溶けていくのが悲しくて涙が出そうになった。情緒不安定かよ、そうだ。でもちらりと見た蒼ちゃんは気持ちよさようにギターを弾いていて、こないだの女の人と蒼ちゃんのことが頭をもたげる。でもこれは単なる焼きもちじゃなくて、あら焼きすぎて焦げちゃったのねじゃなくてあたしと蒼ちゃんの間に横たわるもっと根源的なことで、蒼ちゃんとあたしはふさわしい番いではないんじゃないかというずっと端っこで感じていたことが今になってじりじりじりじりとあたしを焦がす。嫌だな。好きだよと言いたいと思った。ずっと一緒にいようねと言いたかった。あなたの子を妊娠したのと言うべきなのかもしれなかった。ページを進めていっているのに文字を目で追っているのに全然分からなくて目を滑り落ちていく。俯くと木目の茶色いフローリングの隅に埃でできたもにょもにょがあるのが見えて掃除機をかけなくちゃって思う。易々と蒼ちゃんに言い出せないのは、蒼ちゃんが目を輝かせて産んでと言うかもしれないことが怖いから。なんてあたしは後ろめたくて最低なのかと思うけれどそれは一年や三年のことじゃなくて少なくとも二十年契約のことぐらいで、あたしの存在にすら不安定なあたしがあたしと蒼ちゃんの子どもを産むのかと思うとなんかね色んなこと放り出してウミガメになって無心に卵をぽこぽこ産卵するか死にたいと思ったからだめだーってそれを蒼ちゃんに言うことすら躊躇っている。ぱたぱたぱた瞬きをして何歳かになった蒼ちゃんの子どもとあたしと蒼ちゃんと生まれたての子をあたしが抱えているところを想像するけれどそれは想像に過ぎないようでどうしてか泣きたくなる。ええ?読んでいた小説がとうとう犯人を見つけて山場を迎えたらしいのにぼうっと読んでいたあたしには主人公の言っていること記述されていることに意味が分からなくて、開いたまま本を膝の上に置いて読んでいるんですよというポーズを保ちつつもこちらをちっとも気にしていない蒼ちゃんと颯介を見た。「ねえ蒼ちゃんコーラ飲む?」蒼ちゃんはギターの演奏を止めることなく、「入れてくれるの?ありがとー。」と軽く返事して、「颯介もコーラ飲む?」とあたしは尋ねたその瞬間死んでしまいたかった。颯介はコーラとか人工的に味のついたジュースは好きじゃなくて家の冷蔵庫には二ニットルにコーラのペットボトルが入っているけどそれを飲むのは蒼ちゃんだけだった。こんなの人任せでいい加減で良くないかもしれないけど颯介がいると言ったら妊娠していることを蒼ちゃんに告げて、いらないと言ったら蒼ちゃんには言わないと今決めた。三人が思い思いのことをしている中で一番手持ちぶたさなのはあたしだったろうけど、「なんで。姉ちゃん僕が炭酸苦手なの知ってるのに何その嫌がらせ?」と眉をひそめる颯介に、「一応聞いてみただけだよ、一応。」と苦笑いすると、「そんな一朝一夕で好きになることじゃないよ。」と颯介は薄く笑った。

 

エアコンでよく冷やされていた産婦人科の待ち合い室を出て外に踏み出すと、日傘を差していてすら身体中をぼうっと包み込んでくるような暑さにくらくらした。蒼ちゃんにも誰にも話さないまま中絶することにしたあたしはその手術を五日後に行ってもらうように決めてきたところだった。日帰りで可能で手術そのものは十分程度で終わると話す女医の語り口は淡々としていて、あたしはすごくたいそれたことをしているようで怯えた顔つきをしていなければいけない気がしていたのにそっちの方がおかしなことで、あたしもこのことを事務的にこなさないといけないんだろうかという気にさせられた。命はさじ加減でえいやって決められる。適当に受精して適当に堕胎される適当に事務的に正確に。オタマジャクシのように海を泳いで結びついて二十年生きてきたあたしが蒼ちゃんとえいやって作った命をひとりでえいやって殺す。不思議だ。あたしはあたしを殺せないのにあたしの中の命なら殺せる。お腹を撫でながら歩くけれどそこは膨らんでいなくてぺったんでこの中には子宮とか腎臓とかがあるだけでそこに命が浮いているようにはあまり感じられなかった。ぷかぷかぷかあたしだって宙を浮いて歩いている。下宿先の近所にも産婦人科はあったけれどなんとなく大学の人なんかに会ったりしたら嫌で初めて降りる駅にある産婦人科に行ったのだけど帰り道を歩いていて駅の前まで戻ってきて、でも蒼ちゃんが待っている家に帰りたくなかった。駅前にはベンチが並んでいてそのうちの誰も座っていないところに腰をおろす。あたしと蒼ちゃんはかわりばんこに夕食を作るのだけど今日は蒼ちゃんの日で、野菜を大きく切ってソースをたっぷりかけた焼きそばだとかそういう男飯を作ってあたしを待っていてくれるんだろう。見渡すとその駅の周辺は結構栄えていてある方向には商店街があり、またある方向には銀行やらチェーンの食べ物屋やら大きなビルが立ち並んでいた。中絶手術を行ってからまた一週間後に検診のために来てもらわないといけないとあの女医は言っていて、あたしはまだ何回かこの駅を訪れないといけないのだけどそれが終わればもうここで下車することはないのだろう。見知らぬビル群を眺めながらお金をどうしようと考える。中絶費用は十二万円で、仕送りに加えて大学の図書館で週に何回かのアルバイトをしてもらえるお金でほどほどに生活を回していたから貯金なんぞはなくて五万円ぐらいが足りなかった。蒼ちゃんや颯介や親かに借りるにしても五万円を借りる口実が思いつかなかった。旅行にしたって留学にしたって自動車免許取得にしたってバレてしまう。俯いて自分の足と地面だけを視界に入れて途方にくれる。とそのとき紳士物の靴が近づいてきて、「すみません。とても失礼なことなんですが。」と言う声が聞こえた。顔を上げると高級そうなスーツを纏った中年の紳士があたしを見ていて、いつの間にか服が泥だらけとかあたしに何か変なものがついているのだろうかと焦ると、「今から一発五万円で相手をしてもらえませんか。」と口にされた。へ?呆気に取られてその紳士の口元を見つめたけれどそれは紛れもなくその紳士が発した声であって、でも髪の毛もぱりっと整えた上品そうな男性がそんなことを言うなんてちょっと信じられなかった。というか紳士はエスパーであたしの心を読めるのかと不思議にすらなる。「は、どこで。」尋ねると紳士は意外そうな顔をして、「この辺りはそういうホテルはいくらでもありますよ。」と答えた。  部屋に入ると紳士はシャワーを浴びてこさせて、バスタオルだけを巻いたあたしをひんむいてベッドに仰向けにさせて悪夢のように丁寧にあたしの全身を舐めた。何回か来て気に入っている部屋なのだろう天井が鏡張りになった部屋を紳士は選んであたしには身体を舐められている自分と紳士の尻や腰がよく見えるのだった。乳首の先だけを後にとっておいてその周囲だけをしつこく舐める紳士はあたしに纏わりつき舌先で獲物を舐め回す巨大なヘビとかイグアナのようでそうされているのは快か不快かで言えば圧倒的に不快であったし、不感のあたしは残念なことにそうされても何も感じないのだった。あるのは舌が身体中を這う感覚だけだ。「いけませんなあ可愛らしいお嬢さんを舐めると興奮してしまって。」「もうしばらく我慢していてくださいね。」「やっぱり素人のお嬢さんは汚れがない感じが良いなあ。」紳士はときどき喘ぎ混じりに声をはさんだけれど返事をすることではない気がしたので黙って聞いていた。足も腕も首もお腹も胸も舐められるので唾液の臭いが気持ち悪くなって目を瞑って堪えようとしたけれど余計に嗅覚が鋭敏になるようで目を開けて宙を見て鼻の穴を締めて息を吸い込まないよう意識した。べたべたべたべた丁寧に汚されていくようですごく妙な感じがして美味しい話には裏があるという言葉を思い出す。別に殺されているわけでもなく熱い蝋燭を垂らされているわけでもなくスカトロをやらされているわけではないのだけど。そうなるとこれはやっぱり美味しい話なのだろうか。蒼ちゃんのことを思い出す。感じないあたしを気遣いながらもぐいぐい動いて気持ち良さそうにする蒼ちゃんとのセックスは嫌いじゃなかった。でも今あたしは蒼ちゃんとの子どもをおろすために知らない紳士の唾液まみれにされているのであってちゃんちゃらおかしくて笑えるのだ。とうとう乳首の先を舐められて、「ひゃん。」と口からついて出した自分に驚いた。無意識のあとに意識がついていって気持ちよさは感じないのに自衛のために感じている振りをした自分に傷ついた。あたしは五万円をもらうために感じている振りをしようとしているのだ。なんて安い心なんだろうなあってあたしがびりびり破けていくけど紳士は満足げに「いいねえ。」と言ってますます乳首を舌先でこすってきたから、「あっあっあ。」とますます声を出してあげた。なんて馬鹿らしいんだろう。

 

 最初から空っぽで何も入っていなかったのかもしれないけど空っぽになったお腹を撫でてあっためていた、ソファーの上で体育座りをして。逆に口からはビールを食道に胃に流していって冷やしていくけど。あたしは今日大学をサボって堕胎手術をしてきて蒼ちゃんは仕事の後に飲み会があって今日はまだ顔を見てお喋りをしていなかったけど、さっき電話があって先輩が酔いつぶれてしまったから家に連れてくると言っていた。あたしは閉鎖的で自分の巣に知らない人を入れたくなくてそれを不快に感じたし、蒼ちゃんはあたしがそんなのをなんとなく分かっているだろうからすごく申し訳なさそうにしていたけれど、まもなく玄関のドアが開いて蒼ちゃんとそこまで年は変わらなく見える男の人が腕を組まれてリビングに現れて、その彼の顔は真っ赤になっていてあたしを認識していないようだったけれど蒼ちゃんは「ただいま、悪いね、俺が介抱するからちょこは本当に何もしなくていいから気にしないで。」と謝ったのであたしはソファーとショートパンツのお尻のところをボンドでくっつけた人になりたくて本当に何もしないで見ているだけでいた。ここに来るまでにもどしたのだろう据えた胃液の臭いがしてあのとき紳士に抱かれたことを思い出して体育座りをした膝のところに顔を埋めて泣きそうになった。でもなんで泣きそうなのかは自分でもよく分からなくて誰にも内緒で命を奪ってきた今日のあたしは激情に揺れているのかもしれなかった。「くろさん汚れ落とした方がいいっすからとりあえず風呂入りましょっかあ。」と蒼ちゃんが言って、くろさんとかいう人が酔っ払いの呂律が回らない喋り方をしてぐだぐだ嫌がるのを聞いていた。本当はお茶を入れてあげたりとか何か手伝ってあげた方がいいのかもしれないけどそんなことをする気が起こらなくてビールをぐびぐび飲む。蒼ちゃんが困っているところをサカナにしているみたいだけどそういうわけでもなく一人でいるみたいな気持ちになりたかった。リビングのドアが開いて颯介が現れ、「あれどうしたの。お客さん?」と尋ねて冷蔵庫に入れていたペットボトルを取り出しグラスに水を注いだ。蒼ちゃんがそれを説明して颯介は「ふうんそうなんだ蒼さん面倒見よくて大変だね。」と言ったけれど、「夜遅くに颯介にもわりいな。」と蒼ちゃんが軽く謝ったあと少し空白があいて、「弟さん?綺麗な顔してるね。学生さん?」とくろさんが絡んだ。「いえ、フリーターです。」答える颯介の声が一段低くなって、「ああそうどこでバイトしてるの。」と問いかけられたのに「近所のコンビニです。」と颯介はそっけなく答えた。「そんな仕事よりさあウリとかやった方が儲かんじゃないの。知ってる?一回しゃぶっただけで三千円とか五千円とか貰えるらしいよ。いいよなあ美人な男の子は。」「ちょ、くろさん、俺の可愛い弟くんにそういうこと言うのはやめてくださいよ。」蒼ちゃんは宥めようとしたけど颯介の目が怒るのがあたしにはありありと見えて次の瞬間颯介は彼にグラスの水をぶっかけていた。「おまっ何するんだよお。」と呂律の回らない喋り方をして、「あー。」と蒼ちゃんは溜め息のような言葉をもらした。あたしは何もせず何も言わずソファーのところでちんまりと彼らを見ているだけ。蒼ちゃんは「颯介ごめんな。」と言ったあと、「くろさん今のはちょっとだめですよ。言っていいことと悪いことがあるんですから颯介に謝ってください。それで風呂入って酔い覚ましてきてください。」と言った。空のグラスを持った颯介は身体を小刻みに震わせながら怒りに満ちた顔で彼を見ていて、「ああごめん、失礼な発言をいたしました。」と彼がへらへらと言うと、「ちょ、くろさんそういう謝り方じゃないでしょ?」と困った顔をしてから「颯介、悪いけどこの人すげえ酔っ払ってるから大目に見てやって。でもほんとごめんな。」とその人の分まで謝った。「ん。」颯介は唇をとがらせて一応返事をすると空のグラスをキッチンに置いてリビングを出て行った。あたしはそれを見ていて蒼ちゃんってなんていい人なんだろうって、このくろさんとかいう人はなんとロクデナシにタイミングが悪いんだろうって思って、ねえ蒼ちゃん聞いてよあたし今日蒼ちゃんとの子どもをおろしてきたのって大きな声で言いたくなった。蒼ちゃんの傷ついている顔を見たくて、そうすることで蒼ちゃんがあたしを忘れないであたしを一生心に刻んでいてほしくて。

 

 蒼ちゃんが仕事に出かけていって玄関の扉が閉まる。その音を聞いて意識を手放していこうとするとき部屋の扉が開く音がしてでも眠たくって、忘れ物を取りに来たのだろうと目を瞑ったままでいた。でも、「姉ちゃん。いい?」と声がして蒼ちゃんではなく颯介なのだと分かって、「んー?」と半分意識を飛ばして返事をした。「姉ちゃん中絶したの?」というのが夢の中で聞こえたぽかぽか眠りかけたけどその意味を解読した脳ははっと目を開けて、「え?」と聞き返して颯介と目が合った。「鍵借りようと思って鞄探ったときに領収書が残っているの見つけちゃって。」颯介は悲しい顔をしていたけどあたしは知られてしまったのを現実と受け止められずに瞬きを何回かしたけど目の先に広がっている景色は同じで、「蒼ちゃんには言わないでね。」と空白ののちに言った。「なんで?蒼さんとの子じゃないの?」と悲しそうにしている颯介はなんで悲しそうなんだろう。「そうだよ。」「じゃあなんで言わなかったの。」颯介は弟でしかも性的ないじめにあって高校中退とかいう訳ありな感じの弟で颯介の前では姉ぶっていなければいけないように思うのに、「産んでって言われるのがこわかったから。」と答える寝起きの口は正直だ。「じゃあ産みたくないならなんで避妊してなかったんだよ。」颯介の顔がぐにゃんと歪んで変だ。「なんでだろうなあ…。」と言ってあたしは止まった。たぶん、蒼ちゃんは子どもができてもいいって思っていたから。でもあたしはなんでなんだろう。「分からないなあ。」と笑うと、それに反して颯介は「やめてくれよおおお。」と叫んだ。広くはないけど蒼ちゃんが広い家に住みたいと言って選んだ部屋にその叫び声が響き渡って、それから颯介は「俺、姉ちゃんのことが好きなんだよおお。」と言ってさめざめと涙を流した。何それ何かがおかしい。今自分がどんな絵本のどんなページの中にいるのかがよく分からなくて、「あたしも颯介のことは好きだよ?」と言ってみると、「そういうことじゃなくて。違うんだよそういうことじゃないんだよ。」と颯介は息を荒くするといまだベッドの中にいるあたしの口を塞いだ。柔らかいなんだこれあたしよりも柔らかいぽよんとした唇の感触があってそのあと柔らかい舌が入ってくる。「なんで。」口をふさがれていて上手く声にもならないけど小さな声で抵抗すると、「俺は姉ちゃんが好きだからだよ。」と顔を少し離して颯介が言って、「ごめん、ごめん姉ちゃん、でも蒼さんとつけないでやってたんでしょ?そんなのさあ駄目だよ。」と言いながらズボンを脱いでパンツを脱いで屹立したちんこをあたしに向けた。そのちんこは蒼ちゃんのそれより大きいぐらいでぎょっとしたけどまじかよふざけんなよ何のエイプリルフールだよもしくはトリックオアトリートかお菓子をあげなかったからいたずらしてんのかって思うけど、でも結局のところあたしはあたしがどうでもよくて颯介が布団を捲ってあたしのショートパンツとパンツを脱がせてあたしの穴にちんこを入れようとするのを見ていた。不思議だ。

 

エアコンでよく冷やされていた産婦人科の待ち合い室を出て外に踏み出すと、日傘を差していてすら身体中をぼうっと包み込んでくるような暑さにくらくらした。蒼ちゃんにも誰にも話さないまま中絶することにしたあたしはその手術を五日後に行ってもらうように決めてきたところだった。日帰りで可能で手術そのものは十分程度で終わると話す女医の語り口は淡々としていて、あたしはすごくたいそれたことをしているようで怯えた顔つきをしていなければいけない気がしていたのにそっちの方がおかしなことで、あたしもこのことを事務的にこなさないといけないんだろうかという気にさせられた。命はさじ加減でえいやって決められる。適当に受精して適当に堕胎される適当に事務的に正確に。オタマジャクシのように海を泳いで結びついて二十年生きてきたあたしが蒼ちゃんとえいやって作った命をひとりでえいやって殺す。不思議だ。あたしはあたしを殺せないのにあたしの中の命なら殺せる。お腹を撫でながら歩くけれどそこは膨らんでいなくてぺったんでこの中には子宮とか腎臓とかがあるだけでそこに命が浮いているようにはあまり感じられなかった。ぷかぷかぷかあたしだって宙を浮いて歩いている。下宿先の近所にも産婦人科はあったけれどなんとなく大学の人なんかに会ったりしたら嫌で初めて降りる駅にある産婦人科に行ったのだけど帰り道を歩いていて駅の前まで戻ってきて、でも蒼ちゃんが待っている家に帰りたくなかった。駅前にはベンチが並んでいてそのうちの誰も座っていないところに腰をおろす。あたしと蒼ちゃんはかわりばんこに夕食を作るのだけど今日は蒼ちゃんの日で、野菜を大きく切ってソースをたっぷりかけた焼きそばだとかそういう男飯を作ってあたしを待っていてくれるんだろう。見渡すとその駅の周辺は結構栄えていてある方向には商店街があり、またある方向には銀行やらチェーンの食べ物屋やら大きなビルが立ち並んでいた。中絶手術を行ってからまた一週間後に検診のために来てもらわないといけないとあの女医は言っていて、あたしはまだ何回かこの駅を訪れないといけないのだけどそれが終わればもうここで下車することはないのだろう。見知らぬビル群を眺めながらお金をどうしようと考える。中絶費用は十二万円で、仕送りに加えて大学の図書館で週に何回かのアルバイトをしてもらえるお金でほどほどに生活を回していたから貯金なんぞはなくて五万円ぐらいが足りなかった。蒼ちゃんや颯介や親かに借りるにしても五万円を借りる口実が思いつかなかった。旅行にしたって留学にしたって自動車免許取得にしたってバレてしまう。俯いて自分の足と地面だけを視界に入れて途方にくれる。とそのとき紳士物の靴が近づいてきて、「すみません。とても失礼なことなんですが。」と言う声が聞こえた。顔を上げると高級そうなスーツを纏った中年の紳士があたしを見ていて、いつの間にか服が泥だらけとかあたしに何か変なものがついているのだろうかと焦ると、「今から一発五万円で相手をしてもらえませんか。」と口にされた。へ?呆気に取られてその紳士の口元を見つめたけれどそれは紛れもなくその紳士が発した声であって、でも髪の毛もぱりっと整えた上品そうな男性がそんなことを言うなんてちょっと信じられなかった。というか紳士はエスパーであたしの心を読めるのかと不思議にすらなる。「は、どこで。」尋ねると紳士は意外そうな顔をして、「この辺りはそういうホテルはいくらでもありますよ。」と答えた。
部屋に入ると紳士はシャワーを浴びてこさせて、バスタオルだけを巻いたあたしをひんむいてベッドに仰向けにさせて悪夢のように丁寧にあたしの全身を舐めた。乳首の先だけを後にとっておいてその周囲だけをしつこく舐める彼は巨大なヘビとかイグアナのようだった。「可愛らしいお嬢さんを舐めると興奮してしまって。」「気持ち悪くしてすみません。もうしばらく我慢していてくださいね。」「やっぱり素人のお嬢さんは汚れがない感じが良いなあ。」と紳士はときどき

足も腕も首もお腹も胸も紳士が舌を這わせるので唾液の臭いがまとわりついてたまらなく気持ち悪くて、目を瞑ると余計に嗅覚が鋭敏になるようで

 夏の夜。リビングに三人が集まっているのに蒼ちゃんはテレビの前のカーペットのところでギターを弾いていて、颯介はダイニングテーブルの椅子の上であぐらをかいて本を読んでいて、あたしは蒼ちゃんの近くのソファーにかけて小説を捲っているもののあまりその内容が頭に入ってきていなくてときどき蒼ちゃんを盗み見るのだけど蒼ちゃんはそれに気付いていないような夜だった。蒼ちゃんは日中外で働いているせいか暑さに強くてエアコンをつけたがらないので、窓を全開にして扇風機を強にした部屋では扇風機の羽音とときどき外を人が通り過ぎていく音と、蒼ちゃんが自信満々に弾くギターの音で満ちていた。蒼ちゃんのギターが上手いのかあたしにはよく判断がつかないけれど蒼ちゃんはバンドを組んでいてたまにライブをしたりしている。あたしはそのライブを見に行ったことが一度あるけど、親しい人たちが客として集まったのだろうライブであっても舞台の上の蒼ちゃんは他人のようで、格好いいと女の子たちに拍手されるのは誇らしいよりずっと蒼ちゃんが遠くなるようだった。ギターを弾く蒼ちゃんが悦に浸っていてあたしを見ていないのを颯介が本に熱中していてあたしたちのことなんて気にしていないのを確かめて時おりそっとお腹を撫でた。ドラックストアの検査薬が陽性になって昨日産婦人科に行って分かったことだったけどあたしは妊娠していた。今は妊娠の五週だけど中絶するなら六週から九週までの初期がいいのだとお医者さんが言っていた。あたしにはそれほど時間がなくてそれを蒼ちゃんに告げるかすら迷っていた。あたしより遅い時間からコンビニのバイトに出る颯介にはバレてしまっていたけど今日は大学をずる休みして一日中ベッドにいて、その昼の間うるさかった蝉の鳴き声も今は止んでいて、あたしたちが三人いる光景の中で蒼ちゃんが指を動かすたびに音が奏でられでもそれが瞬く間に空気に浸透して溶けていくのが悲しくて涙が出そうになった。情緒不安定かよ、そうだ。でもちらりと見た蒼ちゃんは気持ちよさようにギターを弾いていて、こないだの女の人と蒼ちゃんのことが頭をもたげる。でもこれは単なる焼きもちじゃなくて、あら焼きすぎて焦げちゃったのねじゃなくてあたしと蒼ちゃんの間に横たわるもっと根源的なことで、蒼ちゃんとあたしはふさわしい番いではないんじゃないかというずっと端っこで感じていたことが今になってじりじりじりじりとあたしを焦がす。嫌だな。好きだよと言いたいと思った。ずっと一緒にいようねと言いたかった。あなたの子を妊娠したのと言うべきなのかもしれなかった。ページを進めていっているのに文字を目で追っているのに全然分からなくて目を滑り落ちていく。俯くと木目の茶色いフローリングの隅に埃でできたもにょもにょがあるのが見えて掃除機をかけなくちゃって思う。易々と蒼ちゃんに言い出せないのは、蒼ちゃんが目を輝かせて産んでと言うかもしれないことが怖いから。なんてあたしは後ろめたくて最低なのかと思うけれどそれは一年や三年のことじゃなくて少なくとも二十年契約のことぐらいで、あたしの存在にすら不安定なあたしがあたしと蒼ちゃんの子どもを産むのかと思うとなんかね色んなこと放り出してウミガメになって無心に卵をぽこぽこ産卵するか死にたいと思ったからだめだーってそれを蒼ちゃんに言うことすら躊躇っている。ぱたぱたぱた瞬きをして何歳かになった蒼ちゃんの子どもとあたしと蒼ちゃんと生まれたての子をあたしが抱えているところを想像するけれどそれは想像に過ぎないようでどうしてか泣きたくなる。ええ?読んでいた小説がとうとう犯人を見つけて山場を迎えたらしいのにぼうっと読んでいたあたしには主人公の言っていること記述されていることに意味が分からなくて、開いたまま本を膝の上に置いて読んでいるんですよというポーズを保ちつつもこちらをちっとも気にしていない蒼ちゃんと颯介を見た。「ねえ蒼ちゃんコーラ飲む?」蒼ちゃんはギターの演奏を止めることなく、「入れてくれるの?ありがとー。」と軽く返事して、「颯介もコーラ飲む?」とあたしは尋ねたその瞬間死んでしまいたかった。颯介はコーラとか人工的に味のついたジュースは好きじゃなくて家の冷蔵庫には二ニットルにコーラのペットボトルが入っているけどそれを飲むのは蒼ちゃんだけだった。こんなの人任せでいい加減で良くないかもしれないけど颯介がいると言ったら妊娠していることを蒼ちゃんに告げて、いらないと言ったら蒼ちゃんには言わないと今決めた。三人が思い思いのことをしている中で一番手持ちぶたさなのはあたしだったろうけど、「なんで。姉ちゃん僕が炭酸苦手なの知ってるのに何その嫌がらせ?」と眉をひそめる颯介に、「一応聞いてみただけだよ、一応。」と苦笑いすると、「そんな一朝一夕で好きになることじゃないよ。」と颯介は薄く笑った。

 洗面所で蒼ちゃんがドライヤーをしている音が聞こえる。あたしはリビングのソファーの端で体育座りをして、蒼ちゃんがお風呂に入る前につけていったバラエティ番組を見るともなしに眺めている。テレビの中では芸人さんが笑っているけれど、蒼ちゃんはこの番組が好きで、今回も神回だなんて言って楽しそうに観ているけれど、蒼ちゃんがいなければあたしはこの番組をわざわざつけたりしないだろう。短い蒼ちゃんの髪はすぐに乾いてもうすぐあたしのところに戻ってくるのだろう。それで、この番組を最後まで観たあとに部屋であたしを抱くのだろう。部屋着のショートパンツの上に置いていたビールを持ち上げて一口飲むと、またひとつあたしが薄れてよく分からなくなった。「よっしゃ十一分で上がれたわ。どう?なんか面白いことあった?」蒼ちゃんがリビングに顔を出して、「別に。」と首を振ると、「そっかあ別になかったかあ。じゃあいいやあ。いいタイミングに風呂入ったな俺。」と満足そうにした。あたしの横に腰を下ろして、「ちょっとちょうだい。」とビールを奪う。蒼ちゃんは缶を持ち上げて仰いだものの顔をしかめて、「子ども舌の俺にはいかんなあ。やっぱりコーラにするわ。」と立ち上がった。冷蔵庫で冷やしていた二リットルのペットボトルからコップに注いで、「やっぱりコーラだよなあ。」とひとりごちるのが聞こえた。それから、リビングのすみっこでちんまり座ったかと思うと、時おりコップに口をつけながらうろうろ歩き出して落ち着きがない。やがてソファーの隣に座ると、「がっはは。」とテレビに向かって笑い声をあげた。あたしは大学生で、三つ年上で建築現場で働いている蒼ちゃんとは付き合って半年になる。広い家に住むのが夢だと蒼ちゃんが言ったから、それまで蒼ちゃんが住んでいた小さなアパートの家賃と両親が振り込んでくれるあたしの下宿代を足して同棲を始めた。それほど広いというわけではないけれどリビングと二つの部屋があるこの家があたしたちの巣だ。「今週もクソ面白かったな。また明日観よ。」蒼ちゃんはテレビを消すとあたしの頬にキスをして、それから顎をつかんで唇に触れるだけのキスをした。静まった部屋の中であたしは何者でもなくただ彼のものであるような安心感があった。そして蒼ちゃんはあたしを部屋に連れていくとベッドに座らせて、自分は立ったままキスをしてキャミソールの下から手を入れて胸を触った。目を開けると蒼ちゃんの目は閉じていて、部屋の扉がきちんと閉まっているのを視線を流して確かめた。蒼ちゃんはそれから少しあたしの身体を触ると、服を脱いであたしをベッドに寝かせて挿入した。厚い胸板に手を伸ばして触れる。「固い。」と呟くと、蒼ちゃんは膨らみの少ないあたしの胸に触れて、「柔らかい。」と言った。それは蒼ちゃんの嘘で優しさかもしれなかったけど、笑顔を向けるとそれ以上何も言わないであたしの上になった蒼ちゃんが動くのを見ていた。水を得た魚のように蒼ちゃんはぐんぐんと動いて、「痛くない?」とときどきあたしを気づかった。頷くと、「なら良かった。」と頭を撫でられてまた突かれだす。でも蒼ちゃんはあたしが気持ち良がってはいないことを分かっていて、気持ちいい?とは尋ねない。蒼ちゃんは腰を振りながら苦しげに顔を歪めたりするのは気持ちいいからなのだろうけど、あたしにあるのは突かれている感覚だけだ。だけど蒼ちゃんを近くに感じられるからこうするのは嫌いではなくて、毎晩蒼ちゃんに抱かれるのはどちらかといえば好きなことだった。本当は声を出したり感じているふりをした方がいいのかもしれなかったけど蒼ちゃんと付き合うまで処女だったあたしはそうしたやり方が分からなくて、目を開けて見上げている。蒼ちゃんが動いた拍子に汗が飛んできてあたしの頬に着地したのを指で拭おうとしたとき、それに気づいていない蒼ちゃんに両手を繋がれ見下ろされた。手と手を繋いで局部と局部を繋いでいるからあたしが蒼ちゃんに流れ出ていって蒼ちゃんがあたしに入ってくるようだった。でも蒼ちゃんが激しく動くのにしたがってベッドが揺れるものだから、その音が伝わっていないかが気になって壁へと視線を動かした。リビングを隔ててその隣の部屋には弟の颯介がいる。もともとはあたしと蒼ちゃんの二人で暮らしていたのだけど、高校を中退した颯介はちょっと環境を変えてみた方がいいんじゃない?という名の厄介払いで母親と再婚相手が暮らす家から追い出され、母親はあたしが一人暮らしをしていると思っているし下宿代は出してもらってるしで強く言えず、何より蒼ちゃんが俺は別にいいよと本当に別に良さそうに言ったので春頃から家で暮らすようになった。もとはあたしと蒼ちゃんがそれぞれ部屋を持っていてそれぞれのベッドがあったのだけど、あたしの部屋を颯介に譲って蒼ちゃんのベッドで一緒に眠るようになった。これはずっと続くことじゃなくて颯介が自分なりの道を見つけるまでということだったけれど、あたしは蒼ちゃんを大好きなわりに醒めているところがあって、颯介がそれを見つけて家を出ていくのが先なのか蒼ちゃんとあたしが終焉を迎えるのが先なのか分からないと思う。蒼ちゃんと同じベッドで眠るようになってから蒼ちゃんとあたしが違うんだということを喜びより悲しいものに感じることが増えた。身体が大きくて声も大きくて大雑把で細かいことを気にしなくて明るくて優しい蒼ちゃんのあたしと反対のところが大好きでトランプの表裏みたいにあたしたちがきっかり反対になっているところを発見するのが前は嬉しかったのに今はそれがあたしを少し悲しくする。「あーだめだいきそういっていい?」繋いでいる蒼ちゃんの手は熱くて額に汗をかいているのにあたしの身体は温まっていなくて冷たいんだろう。頷くと、「あーいくいくいくいくよ。」と喘ぎ混じりに言ってあたしの膣内に蒼ちゃんを射精した。蒼ちゃんはゴムをつけなくて、話す友達がいないあたしにはそれが普通なのかそうでないのか分からないけれど、蒼ちゃんはときどき女の子も男の子も両方ほしくて男の子が産まれておっきくなったら一緒にバイクで走り回りたいみたいな話をしていたから、いつかあたしが妊娠することがあれば蒼ちゃんと結婚するのかもしれなかった。でもそれは絵本の一ページのように絵空事であたしの身に起こるかもしれないこととしては感じられなかった。蒼ちゃんが身体を浮かせて局部を抜いてあたしから離れていく。待ってと引き留めたくなるけど蒼ちゃんが立ち上がってティッシュで汚れを拭くのを見ている。「ちょこも拭くよ。」と布団を捲って精液の垂れたあたしの股も拭ってくれる。それから蒼ちゃんは部屋の隅に立ててあるギターに目をやって、「弾いてから寝たいけど眠いから今日はもういいや。」と呟くとパンツを穿いただけの裸でベッドに潜り込んだ。「ちょこおやすみ。ちょこは服着ないと風邪引くからちゃんと着ろよ。」と言って目を瞑る。あたしの名前は千代子なのだけど蒼ちゃんはあたしをちょこと呼ぶ。ちょこちょこと呼ばれるたび自分が自分ではない別の生き物になって気がする。蒼ちゃんはまっすぐ上を向いて、でもシングルベッドだから身体を控えめに大の字にして眠る。そして建築現場で肉体労働をして疲れているからなのか元々なのか分からないけれど三分もしないうちに眠りに落ちてしまう。あたしは寝つきが悪いので蒼ちゃんがあたしを置いて行くのを見届けてからシャワーを浴びに行くのが常だ。照明に明るく照らされた横顔をしばらく眺めていると今日もすぐに寝息を立てだして、その頬にキスをするとベッドを出た。

 その晩もなかなか寝つけなくて蒼ちゃんが眠っている電気を消した部屋を出てリビングに向かうと、二時頃だったけれど颯介のいる部屋から明かりがこぼれているのが分かった。ノックをして、「入っていい?」と声をかけると、「いいよ。」とくぐもった声が返ってきて扉を開けると、椅子の上で体育座りをしていた颯介がこっちを見て、「眠れないの?」と聞いた。「眠れないからホットミルクでも飲もうかと思ったんだけど一緒にどう。」と尋ねると、「ご一緒するよ。」と颯介は立ち上がった。

 お母さんはお喋りだけどあたしも颯介もあまり話をしない。ホットミルクのマグカップをローテーブルに置いて、あたしがソファーに座って颯介がカーペットに座った。颯介がさっき部屋で読んでいた本をそのまま持ってきていて読書を再開し始めたから、あたしも物音を立てないように部屋に戻って読みかけの本を持ってきた。蒼ちゃんは少年漫画は好きだけど本は読まなくて、颯介は天文系の本があたしは小説が好きだ。温かいミルクをすすりながらときどき颯介の白い首を見た。颯介とあたしは雰囲気が似ているとはよく言われるけど、颯介は背はまあまああるわりに華奢で女の子みたいな綺麗な顔立ちをしていて繊細で壊れやすいガラスみたいな感じがする。颯介が二年生で高校を中退したのは学校でいじめを受けていたからだった。男子校でフェンシング部に入っていた颯介は部活の三年生に性的ないじめを受けていたのだという。でもこれは母親から聞いたことであって颯介からその話を聞いたことはなかったから、実際のところ颯介が何をされていたのかをあたしはよく知らない。そんなことがあったから余計に颯介を繊細に感じるのかもしれないけど、でも明日起きて窓を開けてベランダの下に飛び降り自殺した颯介の死体があったとしても理解できてしまうかもしれない。

 

あたしは早起きが苦手で大学の講義を極力二限からしか入れないようにしているので、蒼ちゃんの朝はあたしの朝よりも早く始まる。まだベッドでまどろむなか意識のはしっこでアラームが鳴って何度目かでそれを止めた蒼ちゃんがベッドから出て行くのを感じた。あたしは目を瞑ったまま蒼ちゃんがトイレに行って歯を磨いて顔を洗っているのだろう物音を聞いていて、そのうち部屋に戻ってきてカーキ色のTシャツと黒いパンツを身につけるのを薄目で見た。行ってらっしゃいを起きて言えばいい話なのだけど、家を出て行ってしまう寂しさのために薄目のままベッドの縁から手を垂らすとそれに気づいてくれた蒼ちゃんが手を触ってくれて、「ちょこはまだ寝てなよ。」と言うと部屋を出て行って玄関の扉を閉められる音がした。再びあたしはまどろみに落ちていって、九時になってアラームが鳴るとそれを止めてゆっくりと上体を起こした。 リビングに出るとフレンチトーストのいい香りがして、キッチンに立っていた颯介に「おはよう。」と声をかけられた。おはようを返してトイレに行ってから洗面台に向かう。水を顔に浴びせるとひやりと冷たい感覚が肌に跳ねた。あたしが一人暮らしをしているということで家にたらい回されてきたはずが、あたしと他人との暮らしに入り込むことになったのだからむしろ颯介は気の毒ではあったのだけど、颯介なりにそれを悪いと思っているのか彼が家に来てから洗濯干しとお風呂洗いとゴミ出しは彼の仕事となり、ついでに颯介とあたしの分の朝食まで作ってくれるので、部屋を譲った不便を感じること以外は楽になってしまっている。洗面所から戻るとダイニングテーブルにフレンチトーストと目玉焼きとミルクが並んでいて、自分がお母さんに世話を焼かれている小さな子どもであるような気分になる。颯介の作る目玉焼きは黄身が白っぽくなっていないでオレンジ色をしていてきれいだ。「美味しそうに焼けてるね。」と言うと、「僕は大したものは作れないよ。」と颯介は遠慮がちに微笑んだ。目玉焼きの中央に箸を入れると半熟に焼かれていた卵がじゅわっとこぼれて白い皿に色をつけた。不思議だ。颯介といるとき蒼ちゃんといるとき現実感がなくて生きていないような気分になる。あまりにも楽に息をしてあまりにも楽に食事をとるから、これは夢なのかもしくはあたしはもう死んでいるような気さえする。「ねえ、駅の近くに新しいカフェができているのを見つけたよ。」無理に喋る必要がないからあたしたちはあまり話をしないけれど、ふと昨日の帰りに見つけたものを思い出して喋る。「へえ。」と颯介は顔をあげ、「ケーキが美味しそうな可愛い感じのカフェだった。」とあたしは説明を補足する。蒼ちゃんはお洒落なカフェより居酒屋や焼肉屋の方が好きなので、「一緒に行く?」と尋ねると、「行ってもいいよ。」と颯介は答えた。  二限から大学に行って九十分の講義を受けると昼休みになるものの、まだお腹が空かないあたしは飲み物だけを自販機で買って次の講義がある教室に早々と移動した。百人二百人は学生を収められそうな大教室もまだ生徒はまばらで、ところどころでお弁当を開いている学生がいるぐらいだった。りんごゼリーのジュースをストローで吸いながら小説のページを捲る。こうしているとひとりのあたしはとてもひとりのようで蒼ちゃんとか颯介のことを思い出す。さっきまで汗を流して何かの建物を作っていたのであろう蒼ちゃんも今は昼休みでスーパーかコンビニで買ったお弁当かカップ麺かを食べているのだろうし、颯介は近所のコンビニでレジ打ちでもやっているのだろう。大学に講義を受けに来ていてすらあたしが受動的なのに変わりはなく、生きているのにやはり生きている気がしないのだった。周囲を見渡しても移動している生徒はまだ少なく教室はがらんどうで、何列か前に座っていた三人組の女学生がお弁当を広げながらきゃっきゃと話をしているのが雑音としてよく耳に入った。あたしは透明であたしに彼女たちは見えているのに彼女たちにあたしは見えていないのかもしれない。もしくは彼女たちの靴はぴったり床にくっついているのにあたしのパンプスは何ミリ何センチか浮いていて浮遊しているのかもしれない。

巨大なオーブンの中でじりじりとローストされているようだ。急いで飛び出してきたのでいつもは持ち歩いている日傘を忘れてきてしまったのが痛かった。陽が炎となって身体を焼いていくみたいな炎天下で、地図アプリを起動させたスマホを手に蒼ちゃんの会社への道を探していた。土曜日は大学に行かない日なので早起きして蒼ちゃんにお弁当を作ったのだけど、前に話していたカフェに颯介と行こうと準備をしていたとき、お弁当を持って行くのを忘れたと謝罪の電話がかかってきた。蒼ちゃんの勤めている会社は家から歩いて十分かからないぐらいのところにあって、普段は現場仕事をしている蒼ちゃんだけどたまたま事務所にいるとのことでお弁当を届けに行くことになったのだった。ただ家の近所といえどあたしは方向音痴で初めての場所に行くのが得意ではなくて、少々迷いながら不安な足取りで進んでいってようやく会社のあるらしい建物に辿りついたころには背中にびっしょり汗をかいていた。門のあたりには誰もいないようで敷地を進んでいくと建物の入り口にインターホンがついていたので、大学生のあたしが来るには場違いであるように引け目を感じつつそれを押した。戸を開けられて出てきた女の人があたしを見て一瞬首をかしげるような表情をしたあとに、「こんにちは、何の御用でしょうか?」と半分ぐらいの笑顔を作って尋ねた。その女の人越しに戸の向こうの事務所の内側が覗いていて、初めて見る作業着姿の蒼ちゃんがあたしの知らない若い女の人と笑っているのが見えた。金色に近い明るい髪をおろした女の人はすごく派手っぽかったけど綺麗な人に見えて、蒼ちゃんがあたしと一緒にいるときには見せないような楽しそうな笑い方をしていて心がきしむ。作業服を着た男の人たちがいる中であたしの知らない蒼ちゃんがあたしの知らない女の人と楽しそうにしている。用を告げるより先にあたしを見つけた蒼ちゃんが、「ちょこー!」と大声を張り上げたので中の人たちが一斉にあたしを見た。蒼ちゃんの馴染みの仕事仲間だろうにあたしは知らない人たちに目を向けられて緊張がのぼって身体が固くなる。「何それウケるちょこって犬?」あの女の人の声が聞こえて、戸を開けてくれた女の人が戻っていこうとするのが目の端に映って、「あっすみませんありがとうございました。」と慌てて礼を言う。馬鹿にされている。あたしは犬じゃない。蒼ちゃんは急いで走ってくると、「せっかく作ってくれたのにごめんな。わざわざ届けてくれてありがとう。暑かったろ。ごめんな。」とあたしの頭に手を載せて撫でた。汗で濡れているから頭には触らないでと思うけど、「平気。」とお弁当を入れた紙袋を差し出す。「ササの彼女?」後ろに座っていた男の人から声がかかって、蒼ちゃんは振り向くと「そうですよ!いやあ今日は弁当作ってもらったのに忘れてきちゃってもうほんと申し訳ないっすよ届けてもらっちゃって。」と大きな声で返事をした。冷やかしの野次が飛んできて蒼ちゃんが大声で言い返すのを見ていていつのまにか浮かべていた愛想笑いはあたしの口角を上げたままぴったり閉ざしていて窮屈だった。蒼ちゃんが馴染んだ景色の中であたしだけが異物である感じがして、気になってあの女の人をちらりちらりと見たけどそのたびに目が合ってよく分からないけれど彼女はあたしに怒っているのかもしれなかった。彼女は蒼ちゃんのことを好きなのかもしれなくて、あたしより彼女の方が蒼ちゃんに似合っているのかもしれないとちらりと考えた。しばらくするとやっと蒼ちゃんがあたしを見て顔を近づけて、「ごめんね汗かいただろうから冷たいお茶とか飲んでく?」と聞いた。ほんとはのどが渇いていたけど首を横に振って、「大丈夫。」と答えて事務所を後にする。閉じた扉に背を向けて歩きだし、事務所の敷地内を出ていって颯介との待ち合わせ場所に向かおうとするけれどくらくらした。

颯介と待ち合わせをしていたのは駅のそばの広い書店ではあったけれど、どうせ天文学系の本のコーナーにいるのだろうと見当をつけて向かうとその通り颯介の後ろ姿が見えた。170センチは越えているだろうに華奢な颯介の身体はキリンのように細長くて、瞬きする間に本棚に埋もれて消えてしまうんじゃないかと感じた。「お待たせ。」颯介は振り返ると一定の距離を保ったままあたしをじいと見て、「顔色良くないよね?真っ白じゃない?大丈夫?」と尋ねた。そうなのだろうか。エアコンのよく効いた書店に入った今はこれといって体調の悪さを感じなかった。なんとなく両頬を手で覆って確かめるようにしてみたけどそれで何が分かるでもなく、「平気だよ。でも外暑かったからかな。喉はすごく乾いちゃったから早くカフェに行こう。」と身体をくるりと回して踵を返した。 前に店外から眺めてケーキが美味しそうなカフェと思っていたのは、正確にはフルーツタルトを専門にしたカフェでそれぞれフルーツタルトと冷たい飲み物を注文した。店内を見渡すと女性客がほとんどでガテン系の蒼ちゃんを連れてこれば浮いたかもしれないし、コンビニスイーツを食べるみたいに勢いよく食べて旨かったけどすぐ無くなっちゃったよなんて言うかもしれなかったけれど、タルトをちまちまフォークで切って口に運ぶ颯介は別に浮いていなくてなんなら周りの女性客よりもおしとやかにさえ見えた。「さっきね。」と言いかけると颯介は顔を上げて表情だけで続きを促した。「蒼ちゃんが知らない人みたいで怖かったんだ。」「どういうこと?」と颯介が首を傾げる。「仕事仲間の人たちと仲良さそうにしてていつもの蒼ちゃんなんだけどちょっと違うくて、あと派手な美人っぽい女の人と楽しそうに話してるのが見えた。」タルトに載った色鮮やかなフルーツが綺麗だ。ゆっくりフォークを下ろしていくと底のタルト生地のところで引っかかって力をかけるとかすかに皿との摩擦音を鳴らして切れた。「要は嫉妬したってこと?」苦笑いして尋ねられて嫉妬と収められてしまうのは嫌な感じがしたしもっと大きなものであるような感じがしたけれど、「まあそうなのかな。」と言うと、「それに姉ちゃんが知らない人といるならまた違う感じがするのはそんなもんじゃないの。」と冷静に指摘されてそう言われればそうであるようなでも引っかかるようなでぐるぐるして面倒になって匙を投げた。あたしは蒼ちゃんに依存しすぎていてあたしの知っている蒼ちゃんが彼の全てであってほしいのかもしれないなんて馬鹿げている。「蒼さんは良い人だよ。」颯介は少し怒ったように言って、「そうだよ。」とあたしが頷くと空気は空白になってでも兄弟であるあたしたちにはむしろ空白こそが普通の空気だった。蒼ちゃんは颯介が来てからも変わらずセックスをしたりはするけれど颯介を嫌がる素振りをちっとも見せないすごく良い人で、蒼ちゃんにとっては人類皆兄弟みたいな感じなのかもしれない。でもあたしが蒼ちゃんと似ているところはひとつも見つけられなくて、あたしと颯介の方がずっと似ているところが多い気がした、それは当たり前のことなのかもしれないけど。タルトを三分の二ほど食べ進めたときに突然気持ち悪さが込み上げてきた。「ごめんちょっと。」口を手で抑えて視線でトイレを探すあたしに、「何どうしたの大丈夫?」と颯介が心配そうな声をかけるのが聞こえたけど返事をする余裕もなく奥のトイレに駆け込む。幸運なことに先客はいなくて個室に入ると手洗いのところに顔を近づけてもどした。なんて気持ち悪いのかあたしを巡っていく嫌悪感でぐらぐらする。胃からあがってくるものを吐き出しきって手で水をすくって口内を十分に洗うと、壁を背にしてお尻は床につけないようにして座り込んだ。日傘を差さないで日射しを浴びすぎたせいでやっぱり体調が悪くなっていたのかもしれない。天井を見上げて気持ち悪さを落ち着かせるとあの女の人と蒼ちゃんが笑っていた姿が宙に浮かんだ。ビデオのようなそれを打ち消さずに見上げたままでいて犬みたいな呼び方と言われたことを思い出す。あたしはちょこよ、あなたはどんな立派な名前を持っているのってふっと笑いがもれて、気持ち悪さが幾分収まったのを感じた。立ち上がって念のためにもう一度口をゆすいでから席に戻る途中ででもやっぱりこれは嫉妬よりもっと大きなものだろうと思う。

 

 夏の夜。リビングに三人が集まっているのに蒼ちゃんはテレビの前のカーペットのところでギターを弾いていて、颯介はダイニングテーブルの椅子の上であぐらをかいて本を読んでいて、あたしは蒼ちゃんの近くのソファーにかけて小説を捲っているもののあまりその内容が頭に入ってきていなくてときどき蒼ちゃんを盗み見るのだけど蒼ちゃんはそれに気付いていないような夜だった。蒼ちゃんは日中外で働いているせいか暑さに強くてエアコンをつけたがらないので、窓を全開にして扇風機を強にした部屋では扇風機の羽音とときどき外を人が通り過ぎていく音と、蒼ちゃんが自信満々に弾くギターの音で満ちていた。蒼ちゃんのギターが上手いのかあたしにはよく判断がつかないけれど蒼ちゃんはバンドを組んでいてたまにライブをしたりしている。あたしはそのライブを見に行ったことが一度あるけど、親しい人たちが客として集まったのだろうライブであっても舞台の上の蒼ちゃんは他人のようで、格好いいと女の子たちに拍手されるのは誇らしいよりずっと蒼ちゃんが遠くなるようだった。ギターを弾く蒼ちゃんが悦に浸っていてあたしを見ていないのを颯介が本に熱中していてあたしたちのことなんて気にしていないのを確かめて時おりそっとお腹を撫でた。ドラックストアの検査薬が陽性になって昨日産婦人科に行って分かったことだったけどあたしは妊娠していた。今は妊娠の五週だけど中絶するなら六週から九週までの初期がいいのだとお医者さんが言っていた。あたしにはそれほど時間がなくてそれを蒼ちゃんに告げるかすら迷っていた。あたしより遅い時間からコンビニのバイトに出る颯介にはバレてしまっていたけど今日は大学をずる休みして一日中ベッドにいて、その昼の間うるさかった蝉の鳴き声も今は止んでいて、あたしたちが三人いる光景の中で蒼ちゃんが指を動かすたびに音が奏でられでもそれが瞬く間に空気に浸透して溶けていくのが悲しくて涙が出そうになった。情緒不安定かよ、そうだ。でもちらりと見た蒼ちゃんは気持ちよさようにギターを弾いていて、こないだの女の人と蒼ちゃんのことが頭をもたげる。でもこれは単なる焼きもちじゃなくて、あら焼きすぎて焦げちゃったのねじゃなくてあたしと蒼ちゃんの間に横たわるもっと根源的なことで、蒼ちゃんとあたしはふさわしい番いではないんじゃないかというずっと端っこで感じていたことが今になってじりじりじりじりとあたしを焦がす。嫌だな。好きだよと言いたいと思った。ずっと一緒にいようねと言いたかった。あなたの子を妊娠したのと言うべきなのかもしれなかった。ページを進めていっているのに文字を目で追っているのに全然分からなくて目を滑り落ちていく。俯くと木目の茶色いフローリングの隅に埃でできたもにょもにょがあるのが見えて掃除機をかけなくちゃって思う。易々と蒼ちゃんに言い出せないのは、蒼ちゃんが目を輝かせて産んでと言うかもしれないことが怖いから。なんてあたしは後ろめたくて最低なのかと思うけれどそれは一年や三年のことじゃなくて少なくとも二十年契約のことぐらいで、あたしの存在にすら不安定なあたしがあたしと蒼ちゃんの子どもを産むのかと思うとなんかね色んなこと放り出してウミガメになって無心に卵をぽこぽこ産卵するか死にたいと思ったからだめだーってそれを蒼ちゃんに言うことすら躊躇っている。ぱたぱたぱた瞬きをして何歳かになった蒼ちゃんの子どもとあたしと蒼ちゃんと生まれたての子をあたしが抱えているところを想像するけれどそれは想像に過ぎないようでどうしてか泣きたくなる。ええ?読んでいた小説がとうとう犯人を見つけて山場を迎えたらしいのにぼうっと読んでいたあたしには主人公の言っていること記述されていることに意味が分からなくて、開いたまま本を膝の上に置いて読んでいるんですよというポーズを保ちつつもこちらをちっとも気にしていない蒼ちゃんと颯介を見た。「ねえ蒼ちゃんコーラ飲む?」蒼ちゃんはギターの演奏を止めることなく、「入れてくれるの?ありがとー。」と軽く返事して、「颯介もコーラ飲む?」とあたしは尋ねたその瞬間死んでしまいたかった。颯介はコーラとか人工的に味のついたジュースは好きじゃなくて家の冷蔵庫には二ニットルにコーラのペットボトルが入っているけどそれを飲むのは蒼ちゃんだけだった。こんなの人任せでいい加減で良くないかもしれないけど颯介がいると言ったら妊娠していることを蒼ちゃんに告げて、いらないと言ったら蒼ちゃんには言わないと今決めた。三人が思い思いのことをしている中で一番手持ちぶたさなのはあたしだったろうけど、「なんで。姉ちゃん僕が炭酸苦手なの知ってるのに何その嫌がらせ?」と眉をひそめる颯介に、「一応聞いてみただけだよ、一応。」と苦笑いすると、「そんな一朝一夕で好きになることじゃないよ。」と颯介は薄く笑った。