颯介と待ち合わせをしていたのは駅のそばの広い書店ではあったけれど、どうせ天文学系の本のコーナーにいるのだろうと見当をつけて向かうとその通り颯介の後ろ姿が見えた。170センチは越えているだろうに華奢な颯介の身体はキリンのように細長くて、瞬きする間に本棚に埋もれて消えてしまうんじゃないかと感じた。「お待たせ。」颯介は振り返ると一定の距離を保ったままあたしをじいと見て、「顔色良くないよね?真っ白じゃない?大丈夫?」と尋ねた。そうなのだろうか。エアコンのよく効いた書店に入った今はこれといって体調の悪さを感じなかった。なんとなく両頬を手で覆って確かめるようにしてみたけどそれで何が分かるでもなく、「平気だよ。でも外暑かったからかな。喉はすごく乾いちゃったから早くカフェに行こう。」と身体をくるりと回して踵を返した。
前に店外から眺めてケーキが美味しそうなカフェと思っていたのは、正確にはフルーツタルトを専門にしたカフェでそれぞれフルーツタルトと冷たい飲み物を注文した。店内を見渡すと女性客がほとんどでガテン系の蒼ちゃんを連れてこれば浮いたかもしれないし、コンビニスイーツを食べるみたいに勢いよく食べて旨かったけどすぐ無くなっちゃったよなんて言うかもしれなかったけれど、タルトをちまちまフォークで切って口に運ぶ颯介は別に浮いていなくてなんなら周りの女性客よりもおしとやかにさえ見えた。「さっきね。」と言いかけると颯介は顔を上げて表情だけで続きを促した。「蒼ちゃんが知らない人みたいで怖かったんだ。」「どういうこと?」と颯介が首を傾げる。「仕事仲間の人たちと仲良さそうにしてていつもの蒼ちゃんなんだけどちょっと違うくて、あと派手な美人っぽい女の人と楽しそうに話してるのが見えた。」タルトに載った色鮮やかなフルーツが綺麗だ。ゆっくりフォークを下ろしていくと底のタルト生地のところで引っかかって力をかけるとかすかに皿との摩擦音を鳴らして切れた。「要は嫉妬したってこと?」苦笑いして尋ねられて嫉妬と収められてしまうのは嫌な感じがしたしもっと大きなものであるような感じがしたけれど、「まあそうなのかな。」と言うと、「それに姉ちゃんが知らない人といるならまた違う感じがするのはそんなもんじゃないの。」と冷静に指摘されてそう言われればそうであるようなでも引っかかるようなでぐるぐるして面倒になって匙を投げた。あたしは蒼ちゃんに依存しすぎていてあたしの知っている蒼ちゃんが彼の全てであってほしいのかもしれないなんて馬鹿げている。「蒼さんは良い人だよ。」颯介は少し怒ったように言って、「そうだよ。」とあたしが頷くと空気は空白になってでも兄弟であるあたしたちにはむしろ空白こそが普通の空気だった。蒼ちゃんは颯介が来てからも変わらずセックスをしたりはするけれど颯介を嫌がる素振りをちっとも見せないすごく良い人で、蒼ちゃんにとっては人類皆兄弟みたいな感じなのかもしれない。でもあたしが蒼ちゃんと似ているところはひとつも見つけられなくて、あたしと颯介の方がずっと似ているところが多い気がした、それは当たり前のことなのかもしれないけど。タルトを三分の二ほど食べ進めたときに突然気持ち悪さが込み上げてきた。「ごめんちょっと。」口を手で抑えて視線でトイレを探すあたしに、「何どうしたの大丈夫?」と颯介が心配そうな声をかけるのが聞こえたけど返事をする余裕もなく奥のトイレに駆け込む。幸運なことに先客はいなくて個室に入ると手洗いのところに顔を近づけてもどした。なんて気持ち悪いのかあたしを巡っていく嫌悪感でぐらぐらする。胃からあがってくるものを吐き出しきって手で水をすくって口内を十分に洗うと、壁を背にしてお尻は床につけないようにして座り込んだ。日傘を差さないで日射しを浴びすぎたせいでやっぱり体調が悪くなっていたのかもしれない。天井を見上げて気持ち悪さを落ち着かせるとあの女の人と蒼ちゃんが笑っていた姿が宙に浮かんだ。ビデオのようなそれを打ち消さずに見上げたままでいて犬みたいな呼び方と言われたことを思い出す。あたしはちょこよ、あなたはどんな立派な名前を持っているのってふっと笑いがもれて、気持ち悪さが幾分収まったのを感じた。立ち上がって念のためにもう一度口をゆすいでから席に戻る途中ででもやっぱりこれは嫉妬よりもっと大きなものだろうと思う。

 洗面所で蒼ちゃんがドライヤーをしている音が聞こえる。あたしはリビングのソファーの端で体育座りをして、蒼ちゃんがお風呂に入る前につけていったバラエティ番組を見るともなしに眺めている。テレビの中では芸人さんが笑っているけれど、蒼ちゃんはこの番組が好きで、今回も神回だなんて言って楽しそうに観ているけれど、蒼ちゃんがいなければあたしはこの番組をわざわざつけたりしないだろう。短い蒼ちゃんの髪はすぐに乾いてもうすぐあたしのところに戻ってくるのだろう。それで、この番組を最後まで観たあとに部屋であたしを抱くのだろう。部屋着のショートパンツの上に置いていたビールを持ち上げて一口飲むと、またひとつあたしが薄れてよく分からなくなった。「よっしゃ十一分で上がれたわ。どう?なんか面白いことあった?」蒼ちゃんがリビングに顔を出して、「別に。」と首を振ると、「そっかあ別になかったかあ。じゃあいいやあ。いいタイミングに風呂入ったな俺。」と満足そうにした。あたしの横に腰を下ろして、「ちょっとちょうだい。」とビールを奪う。蒼ちゃんは缶を持ち上げて仰いだものの顔をしかめて、「子ども舌の俺にはいかんなあ。やっぱりコーラにするわ。」と立ち上がった。冷蔵庫で冷やしていた二リットルのペットボトルからコップに注いで、「やっぱりコーラだよなあ。」とひとりごちるのが聞こえた。それから、リビングのすみっこでちんまり座ったかと思うと、時おりコップに口をつけながらうろうろ歩き出して落ち着きがない。やがてソファーの隣に座ると、「がっはは。」とテレビに向かって笑い声をあげた。あたしは大学生で、三つ年上で建築現場で働いている蒼ちゃんとは付き合って半年になる。広い家に住むのが夢だと蒼ちゃんが言ったから、それまで蒼ちゃんが住んでいた小さなアパートの家賃と両親が振り込んでくれるあたしの下宿代を足して同棲を始めた。それほど広いというわけではないけれどリビングと二つの部屋があるこの家があたしたちの巣だ。「今週もクソ面白かったな。また明日観よ。」蒼ちゃんはテレビを消すとあたしの頬にキスをして、それから顎をつかんで唇に触れるだけのキスをした。静まった部屋の中であたしは何者でもなくただ彼のものであるような安心感があった。そして蒼ちゃんはあたしを部屋に連れていくとベッドに座らせて、自分は立ったままキスをしてキャミソールの下から手を入れて胸を触った。目を開けると蒼ちゃんの目は閉じていて、部屋の扉がきちんと閉まっているのを視線を流して確かめた。蒼ちゃんはそれから少しあたしの身体を触ると、服を脱いであたしをベッドに寝かせて挿入した。厚い胸板に手を伸ばして触れる。「固い。」と呟くと、蒼ちゃんは膨らみの少ないあたしの胸に触れて、「柔らかい。」と言った。それは蒼ちゃんの嘘で優しさかもしれなかったけど、笑顔を向けるとそれ以上何も言わないであたしの上になった蒼ちゃんが動くのを見ていた。水を得た魚のように蒼ちゃんはぐんぐんと動いて、「痛くない?」とときどきあたしを気づかった。頷くと、「なら良かった。」と頭を撫でられてまた突かれだす。でも蒼ちゃんはあたしが気持ち良がってはいないことを分かっていて、気持ちいい?とは尋ねない。蒼ちゃんは腰を振りながら苦しげに顔を歪めたりするのは気持ちいいからなのだろうけど、あたしにあるのは突かれている感覚だけだ。だけど蒼ちゃんを近くに感じられるからこうするのは嫌いではなくて、毎晩蒼ちゃんに抱かれるのはどちらかといえば好きなことだった。本当は声を出したり感じているふりをした方がいいのかもしれなかったけど蒼ちゃんと付き合うまで処女だったあたしはそうしたやり方が分からなくて、目を開けて見上げている。蒼ちゃんが動いた拍子に汗が飛んできてあたしの頬に着地したのを指で拭おうとしたとき、それに気づいていない蒼ちゃんに両手を繋がれ見下ろされた。手と手を繋いで局部と局部を繋いでいるからあたしが蒼ちゃんに流れ出ていって蒼ちゃんがあたしに入ってくるようだった。でも蒼ちゃんが激しく動くのにしたがってベッドが揺れるものだから、その音が伝わっていないかが気になって壁へと視線を動かした。リビングを隔ててその隣の部屋には弟の颯介がいる。もともとはあたしと蒼ちゃんの二人で暮らしていたのだけど、高校を中退した颯介はちょっと環境を変えてみた方がいいんじゃない?という名の厄介払いで母親と再婚相手が暮らす家から追い出され、母親はあたしが一人暮らしをしていると思っているし下宿代は出してもらってるしで強く言えず、何より蒼ちゃんが俺は別にいいよと本当に別に良さそうに言ったので春頃から家で暮らすようになった。もとはあたしと蒼ちゃんがそれぞれ部屋を持っていてそれぞれのベッドがあったのだけど、あたしの部屋を颯介に譲って蒼ちゃんのベッドで一緒に眠るようになった。これはずっと続くことじゃなくて颯介が自分なりの道を見つけるまでということだったけれど、あたしは蒼ちゃんを大好きなわりに醒めているところがあって、颯介がそれを見つけて家を出ていくのが先なのか蒼ちゃんとあたしが終焉を迎えるのが先なのか分からないと思う。蒼ちゃんと同じベッドで眠るようになってから蒼ちゃんとあたしが違うんだということを喜びより悲しいものに感じることが増えた。身体が大きくて声も大きくて大雑把で細かいことを気にしなくて明るくて優しい蒼ちゃんのあたしと反対のところが大好きでトランプの表裏みたいにあたしたちがきっかり反対になっているところを発見するのが前は嬉しかったのに今はそれがあたしを少し悲しくする。「あーだめだいきそういっていい?」繋いでいる蒼ちゃんの手は熱くて額に汗をかいているのにあたしの身体は温まっていなくて冷たいんだろう。頷くと、「あーいくいくいくいくよ。」と喘ぎ混じりに言ってあたしの膣内に蒼ちゃんを射精した。蒼ちゃんはゴムをつけなくて、話す友達がいないあたしにはそれが普通なのかそうでないのか分からないけれど、蒼ちゃんはときどき女の子も男の子も両方ほしくて男の子が産まれておっきくなったら一緒にバイクで走り回りたいみたいな話をしていたから、いつかあたしが妊娠することがあれば蒼ちゃんと結婚するのかもしれなかった。でもそれは絵本の一ページのように絵空事であたしの身に起こるかもしれないこととしては感じられなかった。蒼ちゃんが身体を浮かせて局部を抜いてあたしから離れていく。待ってと引き留めたくなるけど蒼ちゃんが立ち上がってティッシュで汚れを拭くのを見ている。「ちょこも拭くよ。」と布団を捲って精液の垂れたあたしの股も拭ってくれる。それから蒼ちゃんは部屋の隅に立ててあるギターに目をやって、「弾いてから寝たいけど眠いから今日はもういいや。」と呟くとパンツを穿いただけの裸でベッドに潜り込んだ。「ちょこおやすみ。ちょこは服着ないと風邪引くからちゃんと着ろよ。」と言って目を瞑る。あたしの名前は千代子なのだけど蒼ちゃんはあたしをちょこと呼ぶ。ちょこちょこと呼ばれるたび自分が自分ではない別の生き物になって気がする。蒼ちゃんはまっすぐ上を向いて、でもシングルベッドだから身体を控えめに大の字にして眠る。そして建築現場で肉体労働をして疲れているからなのか元々なのか分からないけれど三分もしないうちに眠りに落ちてしまう。あたしは寝つきが悪いので蒼ちゃんがあたしを置いて行くのを見届けてからシャワーを浴びに行くのが常だ。照明に明るく照らされた横顔をしばらく眺めていると今日もすぐに寝息を立てだして、その頬にキスをするとベッドを出た。

 その晩もなかなか寝つけなくて蒼ちゃんが眠っている電気を消した部屋を出てリビングに向かうと、二時頃だったけれど颯介のいる部屋から明かりがこぼれているのが分かった。ノックをして、「入っていい?」と声をかけると、「いいよ。」とくぐもった声が返ってきて扉を開けると、椅子の上で体育座りをしていた颯介がこっちを見て、「眠れないの?」と聞いた。「眠れないからホットミルクでも飲もうかと思ったんだけど一緒にどう。」と尋ねると、「ご一緒するよ。」と颯介は立ち上がった。

 お母さんはお喋りだけどあたしも颯介もあまり話をしない。ホットミルクのマグカップをローテーブルに置いて、あたしがソファーに座って颯介がカーペットに座った。颯介がさっき部屋で読んでいた本をそのまま持ってきていて読書を再開し始めたから、あたしも物音を立てないように部屋に戻って読みかけの本を持ってきた。蒼ちゃんは少年漫画は好きだけど本は読まなくて、颯介は天文系の本があたしは小説が好きだ。温かいミルクをすすりながらときどき颯介の白い首を見た。颯介とあたしは雰囲気が似ているとはよく言われるけど、颯介は背はまあまああるわりに華奢で女の子みたいな綺麗な顔立ちをしていて繊細で壊れやすいガラスみたいな感じがする。颯介が二年生で高校を中退したのは学校でいじめを受けていたからだった。男子校でフェンシング部に入っていた颯介は部活の三年生に性的ないじめを受けていたのだという。でもこれは母親から聞いたことであって颯介からその話を聞いたことはなかったから、実際のところ颯介が何をされていたのかをあたしはよく知らない。そんなことがあったから余計に颯介を繊細に感じるのかもしれないけど、でも明日起きて窓を開けてベランダの下に飛び降り自殺した颯介の死体があったとしても理解できてしまうかもしれない。

 

あたしは早起きが苦手で大学の講義を極力二限からしか入れないようにしているので、蒼ちゃんの朝はあたしの朝よりも早く始まる。まだベッドでまどろむなか意識のはしっこでアラームが鳴って何度目かでそれを止めた蒼ちゃんがベッドから出て行くのを感じた。あたしは目を瞑ったまま蒼ちゃんがトイレに行って歯を磨いて顔を洗っているのだろう物音を聞いていて、そのうち部屋に戻ってきてカーキ色のTシャツと黒いパンツを身につけるのを薄目で見た。行ってらっしゃいを起きて言えばいい話なのだけど、家を出て行ってしまう寂しさのために薄目のままベッドの縁から手を垂らすとそれに気づいてくれた蒼ちゃんが手を触ってくれて、「ちょこはまだ寝てなよ。」と言うと部屋を出て行って玄関の扉を閉められる音がした。再びあたしはまどろみに落ちていって、九時になってアラームが鳴るとそれを止めてゆっくりと上体を起こした。 リビングに出るとフレンチトーストのいい香りがして、キッチンに立っていた颯介に「おはよう。」と声をかけられた。おはようを返してトイレに行ってから洗面台に向かう。水を顔に浴びせるとひやりと冷たい感覚が肌に跳ねた。あたしが一人暮らしをしているということで家にたらい回されてきたはずが、あたしと他人との暮らしに入り込むことになったのだからむしろ颯介は気の毒ではあったのだけど、颯介なりにそれを悪いと思っているのか彼が家に来てから洗濯干しとお風呂洗いとゴミ出しは彼の仕事となり、ついでに颯介とあたしの分の朝食まで作ってくれるので、部屋を譲った不便を感じること以外は楽になってしまっている。洗面所から戻るとダイニングテーブルにフレンチトーストと目玉焼きとミルクが並んでいて、自分がお母さんに世話を焼かれている小さな子どもであるような気分になる。颯介の作る目玉焼きは黄身が白っぽくなっていないでオレンジ色をしていてきれいだ。「美味しそうに焼けてるね。」と言うと、「僕は大したものは作れないよ。」と颯介は遠慮がちに微笑んだ。目玉焼きの中央に箸を入れると半熟に焼かれていた卵がじゅわっとこぼれて白い皿に色をつけた。不思議だ。颯介といるとき蒼ちゃんといるとき現実感がなくて生きていないような気分になる。あまりにも楽に息をしてあまりにも楽に食事をとるから、これは夢なのかもしくはあたしはもう死んでいるような気さえする。「ねえ、駅の近くに新しいカフェができているのを見つけたよ。」無理に喋る必要がないからあたしたちはあまり話をしないけれど、ふと昨日の帰りに見つけたものを思い出して喋る。「へえ。」と颯介は顔をあげ、「ケーキが美味しそうな可愛い感じのカフェだった。」とあたしは説明を補足する。蒼ちゃんはお洒落なカフェより居酒屋や焼肉屋の方が好きなので、「一緒に行く?」と尋ねると、「行ってもいいよ。」と颯介は答えた。  二限から大学に行って九十分の講義を受けると昼休みになるものの、まだお腹が空かないあたしは飲み物だけを自販機で買って次の講義がある教室に早々と移動した。百人二百人は学生を収められそうな大教室もまだ生徒はまばらで、ところどころでお弁当を開いている学生がいるぐらいだった。りんごゼリーのジュースをストローで吸いながら小説のページを捲る。こうしているとひとりのあたしはとてもひとりのようで蒼ちゃんとか颯介のことを思い出す。さっきまで汗を流して何かの建物を作っていたのであろう蒼ちゃんも今は昼休みでスーパーかコンビニで買ったお弁当かカップ麺かを食べているのだろうし、颯介は近所のコンビニでレジ打ちでもやっているのだろう。大学に講義を受けに来ていてすらあたしが受動的なのに変わりはなく、生きているのにやはり生きている気がしないのだった。周囲を見渡しても移動している生徒はまだ少なく教室はがらんどうで、何列か前に座っていた三人組の女学生がお弁当を広げながらきゃっきゃと話をしているのが雑音としてよく耳に入った。あたしは透明であたしに彼女たちは見えているのに彼女たちにあたしは見えていないのかもしれない。もしくは彼女たちの靴はぴったり床にくっついているのにあたしのパンプスは何ミリ何センチか浮いていて浮遊しているのかもしれない。

巨大なオーブンの中でじりじりとローストされているようだ。急いで飛び出してきたのでいつもは持ち歩いている日傘を忘れてきてしまったのが痛かった。陽が炎となって身体を焼いていくみたいな炎天下で、地図アプリを起動させたスマホを手に蒼ちゃんの会社への道を探していた。土曜日は大学に行かない日なので早起きして蒼ちゃんにお弁当を作ったのだけど、前に話していたカフェに颯介と行こうと準備をしていたとき、お弁当を持って行くのを忘れたと謝罪の電話がかかってきた。蒼ちゃんの勤めている会社は家から歩いて十分かからないぐらいのところにあって、普段は現場仕事をしている蒼ちゃんだけどたまたま事務所にいるとのことでお弁当を届けに行くことになったのだった。ただ家の近所といえどあたしは方向音痴で初めての場所に行くのが得意ではなくて、少々迷いながら不安な足取りで進んでいってようやく会社のあるらしい建物に辿りついたころには背中にびっしょり汗をかいていた。門のあたりには誰もいないようで敷地を進んでいくと建物の入り口にインターホンがついていたので、大学生のあたしが来るには場違いであるように引け目を感じつつそれを押した。戸を開けられて出てきた女の人があたしを見て一瞬首をかしげるような表情をしたあとに、「こんにちは、何の御用でしょうか?」と半分ぐらいの笑顔を作って尋ねた。その女の人越しに戸の向こうの事務所の内側が覗いていて、初めて見る作業着姿の蒼ちゃんがあたしの知らない若い女の人と笑っているのが見えた。金色に近い明るい髪をおろした女の人はすごく派手っぽかったけど綺麗な人に見えて、蒼ちゃんがあたしと一緒にいるときには見せないような楽しそうな笑い方をしていて心がきしむ。作業服を着た男の人たちがいる中であたしの知らない蒼ちゃんがあたしの知らない女の人と楽しそうにしている。用を告げるより先にあたしを見つけた蒼ちゃんが、「ちょこー!」と大声を張り上げたので中の人たちが一斉にあたしを見た。蒼ちゃんの馴染みの仕事仲間だろうにあたしは知らない人たちに目を向けられて緊張がのぼって身体が固くなる。「何それウケるちょこって犬?」あの女の人の声が聞こえて、戸を開けてくれた女の人が戻っていこうとするのが目の端に映って、「あっすみませんありがとうございました。」と慌てて礼を言う。馬鹿にされている。あたしは犬じゃない。蒼ちゃんは急いで走ってくると、「せっかく作ってくれたのにごめんな。わざわざ届けてくれてありがとう。暑かったろ。ごめんな。」とあたしの頭に手を載せて撫でた。汗で濡れているから頭には触らないでと思うけど、「平気。」とお弁当を入れた紙袋を差し出す。「ササの彼女?」後ろに座っていた男の人から声がかかって、蒼ちゃんは振り向くと「そうですよ!いやあ今日は弁当作ってもらったのに忘れてきちゃってもうほんと申し訳ないっすよ届けてもらっちゃって。」と大きな声で返事をした。冷やかしの野次が飛んできて蒼ちゃんが大声で言い返すのを見ていていつのまにか浮かべていた愛想笑いはあたしの口角を上げたままぴったり閉ざしていて窮屈だった。蒼ちゃんが馴染んだ景色の中であたしだけが異物である感じがして、気になってあの女の人をちらりちらりと見たけどそのたびに目が合ってよく分からないけれど彼女はあたしに怒っているのかもしれなかった。彼女は蒼ちゃんのことを好きなのかもしれなくて、あたしより彼女の方が蒼ちゃんに似合っているのかもしれないとちらりと考えた。しばらくするとやっと蒼ちゃんがあたしを見て顔を近づけて、「ごめんね汗かいただろうから冷たいお茶とか飲んでく?」と聞いた。ほんとはのどが渇いていたけど首を横に振って、「大丈夫。」と答えて事務所を後にする。閉じた扉に背を向けて歩きだし、事務所の敷地内を出ていって颯介との待ち合わせ場所に向かおうとするけれどくらくらした。

広い書店だけど颯介は宇宙とか月とか星とかが好きでそうした本ばかりを読んでいるので颯介がいるだろう場所の見当はついていて、「お待たせ。」と後ろから声をかけると振り返った颯介があたしを二三秒見て、「顔色悪くない?真っ白。」と心配そうな顔をした。「平気だけど暑かったからかな。早くカフェ行こうよ。のど乾いちゃった。」と

あたしは早起きが苦手で大学の講義を極力二限からしか入れないようにしているので、蒼ちゃんの朝はあたしの朝よりも早く始まる。まだベッドでまどろむなか意識のはしっこでアラームが鳴って何度目かでそれを止めた蒼ちゃんがベッドから出て行くのを感じた。あたしは目を瞑ったまま蒼ちゃんがトイレに行って歯を磨いて顔を洗っているのだろう物音を聞いていて、そのうち部屋に戻ってきてカーキ色のTシャツと黒いパンツを身につけるのを薄目で見た。行ってらっしゃいを起きて言えばいい話なのだけど、家を出て行ってしまう寂しさのために薄目のままベッドの縁から手を垂らすとそれに気づいてくれた蒼ちゃんが手を触ってくれて、「ちょこはまだ寝てなよ。」と言うと部屋を出て行って玄関の扉を閉められる音がした。再びあたしはまどろみに落ちていって、九時になってアラームが鳴るとそれを止めてゆっくりと上体を起こした。
リビングに出るとフレンチトーストのいい香りがして、キッチンに立っていた颯介に「おはよう。」と声をかけられた。おはようを返してトイレに行ってから洗面台に向かう。水を顔に浴びせるとひやりと冷たい感覚が肌に跳ねた。あたしが一人暮らしをしているということで家にたらい回されてきたはずが、あたしと他人との暮らしに入り込むことになったのだからむしろ颯介は気の毒ではあったのだけど、颯介なりにそれを悪いと思っているのか彼が家に来てから洗濯干しとお風呂洗いとゴミ出しは彼の仕事となり、ついでに颯介とあたしの分の朝食まで作ってくれるので、部屋を譲った不便を感じること以外は楽になってしまっている。洗面所から戻るとダイニングテーブルにフレンチトーストと目玉焼きとミルクが並んでいて、自分がお母さんに世話を焼かれている小さな子どもであるような気分になる。颯介の作る目玉焼きは黄身が白っぽくなっていないでオレンジ色をしていてきれいだ。「美味しそうに焼けてるね。」と言うと、「僕は大したものは作れないよ。」と颯介は遠慮がちに微笑んだ。目玉焼きの中央に箸を入れると半熟に焼かれていた卵がじゅわっとこぼれて白い皿に色をつけた。不思議だ。颯介といるとき蒼ちゃんといるとき現実感がなくて生きていないような気分になる。あまりにも楽に息をしてあまりにも楽に食事をとるから、これは夢なのかもしくはあたしはもう死んでいるような気さえする。「ねえ、駅の近くに新しいカフェができているのを見つけたよ。」無理に喋る必要がないからあたしたちはあまり話をしないけれど、ふと昨日の帰りに見つけたものを思い出して喋る。「へえ。」と颯介は顔をあげ、「ケーキが美味しそうな可愛い感じのカフェだった。」とあたしは説明を補足する。蒼ちゃんはお洒落なカフェより居酒屋や焼肉屋の方が好きなので、「一緒に行く?」と尋ねると、「行ってもいいよ。」と颯介は答えた。
二限から大学に行って九十分の講義を受けると昼休みになるものの、まだお腹が空かないあたしは飲み物だけを自販機で買って次の講義がある教室に早々と移動した。百人二百人は学生を収められそうな大教室もまだ生徒はまばらで、ところどころでお弁当を開いている学生がいるぐらいだった。りんごゼリーのジュースをストローで吸いながら小説のページを捲る。こうしているとひとりのあたしはとてもひとりのようで蒼ちゃんとか颯介のことを思い出す。さっきまで汗を流して何かの建物を作っていたのであろう蒼ちゃんも今は昼休みでスーパーかコンビニで買ったお弁当かカップ麺かを食べているのだろうし、颯介は近所のコンビニでレジ打ちでもやっているのだろう。大学に講義を受けに来ていてすらあたしが受動的なのに変わりはなく、生きているのにやはり生きている気がしないのだった。周囲を見渡しても移動している生徒はまだ少なく教室はがらんどうで、何列か前に座っていた三人組の女学生がお弁当を広げながらきゃっきゃと話をしているのが雑音としてよく耳に入った。あたしは透明であたしに彼女たちは見えているのに彼女たちにあたしは見えていないのかもしれない。もしくは彼女たちの靴はぴったり床にくっついているのにあたしのパンプスは何ミリ何センチか浮いていて浮遊しているのかもしれない。

巨大なオーブンの中でじりじりとローストされているようだ。急いで飛び出してきたのでいつもは持ち歩いている日傘を忘れてきてしまったのが痛かった。陽が炎となって身体を焼いていくみたいな炎天下で、地図アプリを起動させたスマホを手に蒼ちゃんの会社への道を探していた。土曜日は大学に行かない日なので早起きして蒼ちゃんにお弁当を作ったのだけど、前に話していた新しくできたカフェに颯介と行こうと準備をしていたとき、お弁当を持って行くのを忘れたと謝罪の電話がかかってきた。蒼ちゃんの勤めている会社は家から歩いて十分かからないぐらいのところにあって、普段は現場仕事をしている蒼ちゃんが今日は

あたしは早起きが苦手で大学の講義を極力二限からしか入れないようにしているので、蒼ちゃんの朝はあたしの朝よりも早く始まる。まだベッドでまどろむなか意識のはしっこでアラームが鳴って何度目かでそれを止めた蒼ちゃんがベッドから出て行くのを感じた。あたしは目を瞑ったまま蒼ちゃんがトイレに行って歯を磨いて顔を洗っているのだろう物音を聞いていて、そのうち部屋に戻ってきてカーキ色のTシャツと黒いパンツを身につけるのを薄目で見た。行ってらっしゃいを起きて言えばいい話なのだけど、家を出て行ってしまう寂しさのために薄目のままベッドの縁から手を垂らすとそれに気づいてくれた蒼ちゃんが手を触ってくれて、「ちょこはまだ寝てなよ。」と言うと部屋を出て行って玄関の扉を閉められる音がした。再びあたしはまどろみに落ちていって、九時になってアラームが鳴るとそれを止めてゆっくりと上体を起こした。
リビングに出るとフレンチトーストのいい香りがして、キッチンに立っていた颯介に「おはよう。」と声をかけられた。おはようを返してトイレに行ってから洗面台に向かう。水を顔に浴びせるとひやりと冷たい感覚が肌に跳ねた。あたしが一人暮らしをしているということで家にたらい回されてきたはずが、あたしと他人との暮らしに入り込むことになったのだからむしろ颯介は気の毒ではあったのだけど、颯介なりにそれを悪いと思っているのか彼が家に来てから洗濯干しとお風呂洗いとゴミ出しは彼の仕事となり、ついでに颯介とあたしの分の朝食まで作ってくれるので、部屋を譲った不便を感じること以外は楽になってしまっている。洗面所から戻るとダイニングテーブルにフレンチトーストと目玉焼きとミルクが並んでいて、自分がお母さんに世話を焼かれている小さな子どもであるような気分になる。颯介の作る目玉焼きは黄身が白っぽくなっていないでオレンジ色をしていてきれいだ。「美味しそうに焼けてるね。」と言うと、「僕は大したものは作れないよ。」と颯介は遠慮がちに微笑んだ。目玉焼きの中央に箸を入れると半熟に焼かれていた卵がじゅわっとこぼれて白い皿に色をつけた。不思議だ。颯介といるとき蒼ちゃんといるとき現実感がなくて生きていないような気分になる。あまりにも楽に息をしてあまりにも楽に食事をとるから、これは夢なのかもしくはあたしはもう死んでいるような気さえする。「ねえ、駅の近くに新しいカフェができているのを見つけたよ。」無理に喋る必要がないからあたしたちはあまり話をしないけれど、ふと昨日の帰りに見つけたものを思い出して喋る。「へえ。」と颯介は顔をあげ、「ケーキが美味しそうな可愛い感じのカフェだった。」とあたしは説明を補足する。蒼ちゃんはお洒落なカフェより居酒屋や焼肉屋の方が好きなので、「一緒に行く?」と尋ねると、「行ってもいいよ。」と颯介は答えた。

 洗面所で蒼ちゃんがドライヤーをしている音が聞こえる。あたしはリビングのソファーの端で体育座りをして、蒼ちゃんがお風呂に入る前につけていったバラエティ番組を見るともなしに眺めている。テレビの中では芸人さんが笑っているけれど、蒼ちゃんはこの番組が好きで、今回も神回だなんて言って楽しそうに観ているけれど、蒼ちゃんがいなければあたしはこの番組をわざわざつけたりしないだろう。短い蒼ちゃんの髪はすぐに乾いてもうすぐあたしのところに戻ってくるのだろう。それで、この番組を最後まで観たあとに部屋であたしを抱くのだろう。部屋着のショートパンツの上に置いていたビールを持ち上げて一口飲むと、またひとつあたしが薄れてよく分からなくなった。「よっしゃ十一分で上がれたわ。どう?なんか面白いことあった?」蒼ちゃんがリビングに顔を出して、「別に。」と首を振ると、「そっかあ別になかったかあ。じゃあいいやあ。いいタイミングに風呂入ったな俺。」と満足そうにした。あたしの横に腰を下ろして、「ちょっとちょうだい。」とビールを奪う。蒼ちゃんは缶を持ち上げて仰いだものの顔をしかめて、「子ども舌の俺にはいかんなあ。やっぱりコーラにするわ。」と立ち上がった。冷蔵庫で冷やしていた二リットルのペットボトルからコップに注いで、「やっぱりコーラだよなあ。」とひとりごちるのが聞こえた。それから、リビングのすみっこでちんまり座ったかと思うと、時おりコップに口をつけながらうろうろ歩き出して落ち着きがない。やがてソファーの隣に座ると、「がっはは。」とテレビに向かって笑い声をあげた。あたしは大学生で、三つ年上で建築現場で働いている蒼ちゃんとは付き合って半年になる。広い家に住むのが夢だと蒼ちゃんが言ったから、それまで蒼ちゃんが住んでいた小さなアパートの家賃と両親が振り込んでくれるあたしの下宿代を足して同棲を始めた。それほど広いというわけではないけれどリビングと二つの部屋があるこの家があたしたちの巣だ。「今週もクソ面白かったな。また明日観よ。」蒼ちゃんはテレビを消すとあたしの頬にキスをして、それから顎をつかんで唇に触れるだけのキスをした。静まった部屋の中であたしは何者でもなくただ彼のものであるような安心感があった。そして蒼ちゃんはあたしを部屋に連れていくとベッドに座らせて、自分は立ったままキスをしてキャミソールの下から手を入れて胸を触った。目を開けると蒼ちゃんの目は閉じていて、部屋の扉がきちんと閉まっているのを視線を流して確かめた。蒼ちゃんはそれから少しあたしの身体を触ると、服を脱いであたしをベッドに寝かせて挿入した。厚い胸板に手を伸ばして触れる。「固い。」と呟くと、蒼ちゃんは膨らみの少ないあたしの胸に触れて、「柔らかい。」と言った。それは蒼ちゃんの嘘で優しさかもしれなかったけど、笑顔を向けるとそれ以上何も言わないであたしの上になった蒼ちゃんが動くのを見ていた。水を得た魚のように蒼ちゃんはぐんぐんと動いて、「痛くない?」とときどきあたしを気づかった。頷くと、「なら良かった。」と頭を撫でられてまた突かれだす。でも蒼ちゃんはあたしが気持ち良がってはいないことを分かっていて、気持ちいい?とは尋ねない。蒼ちゃんは腰を振りながら苦しげに顔を歪めたりするのは気持ちいいからなのだろうけど、あたしにあるのは突かれている感覚だけだ。だけど蒼ちゃんを近くに感じられるからこうするのは嫌いではなくて、毎晩蒼ちゃんに抱かれるのはどちらかといえば好きなことだった。本当は声を出したり感じているふりをした方がいいのかもしれなかったけど蒼ちゃんと付き合うまで処女だったあたしはそうしたやり方が分からなくて、目を開けて見上げている。蒼ちゃんが動いた拍子に汗が飛んできてあたしの頬に着地したのを指で拭おうとしたとき、それに気づいていない蒼ちゃんに両手を繋がれ見下ろされた。手と手を繋いで局部と局部を繋いでいるからあたしが蒼ちゃんに流れ出ていって蒼ちゃんがあたしに入ってくるようだった。でも蒼ちゃんが激しく動くのにしたがってベッドが揺れるものだから、その音が伝わっていないかが気になって壁へと視線を動かした。リビングを隔ててその隣の部屋には弟の颯介がいる。もともとはあたしと蒼ちゃんの二人で暮らしていたのだけど、高校を中退した颯介はちょっと環境を変えてみた方がいいんじゃない?という名の厄介払いで母親と再婚相手が暮らす家から追い出され、母親はあたしが一人暮らしをしていると思っているし下宿代は出してもらってるしで強く言えず、何より蒼ちゃんが俺は別にいいよと本当に別に良さそうに言ったので春頃から家で暮らすようになった。もとはあたしと蒼ちゃんがそれぞれ部屋を持っていてそれぞれのベッドがあったのだけど、あたしの部屋を颯介に譲って蒼ちゃんのベッドで一緒に眠るようになった。これはずっと続くことじゃなくて颯介が自分なりの道を見つけるまでということだったけれど、あたしは蒼ちゃんを大好きなわりに醒めているところがあって、颯介がそれを見つけて家を出ていくのが先なのか蒼ちゃんとあたしが終焉を迎えるのが先なのか分からないと思う。蒼ちゃんと同じベッドで眠るようになってから蒼ちゃんとあたしが違うんだということを喜びより悲しいものに感じることが増えた。身体が大きくて声も大きくて大雑把で細かいことを気にしなくて明るくて優しい蒼ちゃんのあたしと反対のところが大好きでトランプの表裏みたいにあたしたちがきっかり反対になっているところを発見するのが前は嬉しかったのに今はそれがあたしを少し悲しくする。「あーだめだいきそういっていい?」繋いでいる蒼ちゃんの手は熱くて額に汗をかいているのにあたしの身体は温まっていなくて冷たいんだろう。頷くと、「あーいくいくいくいくよ。」と喘ぎ混じりに言ってあたしの膣内に蒼ちゃんを射精した。蒼ちゃんはゴムをつけなくて、話す友達がいないあたしにはそれが普通なのかそうでないのか分からないけれど、蒼ちゃんはときどき女の子も男の子も両方ほしくて男の子が産まれておっきくなったら一緒にバイクで走り回りたいみたいな話をしていたから、いつかあたしが妊娠することがあれば蒼ちゃんと結婚するのかもしれなかった。でもそれは絵本の一ページのように絵空事であたしの身に起こるかもしれないこととしては感じられなかった。蒼ちゃんが身体を浮かせて局部を抜いてあたしから離れていく。待ってと引き留めたくなるけど蒼ちゃんが立ち上がってティッシュで汚れを拭くのを見ている。「ちょこも拭くよ。」と布団を捲って精液の垂れたあたしの股も拭ってくれる。それから蒼ちゃんは部屋の隅に立ててあるギターに目をやって、「弾いてから寝たいけど眠いから今日はもういいや。」と呟くとパンツを穿いただけの裸でベッドに潜り込んだ。「ちょこおやすみ。ちょこは服着ないと風邪引くからちゃんと着ろよ。」と言って目を瞑る。あたしの名前は千代子なのだけど蒼ちゃんはあたしをちょこと呼ぶ。ちょこちょこと呼ばれるたび自分が自分ではない別の生き物になって気がする。蒼ちゃんはまっすぐ上を向いて、でもシングルベッドだから身体を控えめに大の字にして眠る。そして建築現場で肉体労働をして疲れているからなのか元々なのか分からないけれど三分もしないうちに眠りに落ちてしまう。あたしは寝つきが悪いので蒼ちゃんがあたしを置いて行くのを見届けてからシャワーを浴びに行くのが常だ。照明に明るく照らされた横顔をしばらく眺めていると今日もすぐに寝息を立てだして、その頬にキスをするとベッドを出た。

 その晩もなかなか寝つけなくて蒼ちゃんが眠っている電気を消した部屋を出てリビングに向かうと、二時頃だったけれど颯介のいる部屋から明かりがこぼれているのが分かった。ノックをして、「入っていい?」と声をかけると、「いいよ。」とくぐもった声が返ってきて扉を開けると、椅子の上で体育座りをしていた颯介がこっちを見て、「眠れないの?」と聞いた。「眠れないからホットミルクでも飲もうかと思ったんだけど一緒にどう。」と尋ねると、「ご一緒するよ。」と颯介は立ち上がった。

 お母さんはお喋りだけどあたしも颯介もあまり話をしない。ホットミルクのマグカップをローテーブルに置いて、あたしがソファーに座って颯介がカーペットに座った。颯介がさっき部屋で読んでいた本をそのまま持ってきていて読書を再開し始めたから、あたしも物音を立てないように部屋に戻って読みかけの本を持ってきた。蒼ちゃんは少年漫画は好きだけど本は読まなくて、颯介は天文系の本があたしは小説が好きだ。温かいミルクをすすりながらときどき颯介の白い首を見た。颯介とあたしは雰囲気が似ているとはよく言われるけど、颯介は背はまあまああるわりに華奢で女の子みたいな綺麗な顔立ちをしていて繊細で壊れやすいガラスみたいな感じがする。颯介が二年生で高校を中退したのは学校でいじめを受けていたからだった。男子校でフェンシング部に入っていた颯介は部活の三年生に性的ないじめを受けていたのだという。でもこれは母親から聞いたことであって颯介からその話を聞いたことはなかったから、実際のところ颯介が何をされていたのかをあたしはよく知らない。そんなことがあったから余計に颯介を繊細に感じるのかもしれないけど、でも明日起きて窓を開けてベランダの下に飛び降り自殺した颯介の死体があったとしても理解できてしまうかもしれない。

 洗面所で蒼ちゃんがドライヤーをしている音が聞こえる。あたしはリビングのソファーの端で体育座りをして、蒼ちゃんがお風呂に入る前につけていったバラエティ番組を見るともなしに眺めている。テレビの中では芸人さんが笑っているけれど、蒼ちゃんはこの番組が好きで、今回も神回だなんて言って楽しそうに観ているけれど、蒼ちゃんがいなければあたしはこの番組をわざわざつけたりしないだろう。短い蒼ちゃんの髪はすぐに乾いてもうすぐあたしのところに戻ってくるのだろう。それで、この番組を最後まで観たあとに部屋であたしを抱くのだろう。部屋着のショートパンツの上に置いていたビールを持ち上げて一口飲むと、またひとつあたしが薄れてよく分からなくなった。「よっしゃ十一分で上がれたわ。どう?なんか面白いことあった?」蒼ちゃんがリビングに顔を出して、「別に。」と首を振ると、「そっかあ別になかったかあ。じゃあいいやあ。いいタイミングに風呂入ったな俺。」と満足そうにした。あたしの横に腰を下ろして、「ちょっとちょうだい。」とビールを奪う。蒼ちゃんは缶を持ち上げて仰いだものの顔をしかめて、「子ども舌の俺にはいかんなあ。やっぱりコーラにするわ。」と立ち上がった。冷蔵庫で冷やしていた二リットルのペットボトルからコップに注いで、「やっぱりコーラだよなあ。」とひとりごちるのが聞こえた。それから、リビングのすみっこでちんまり座ったかと思うと、時おりコップに口をつけながらうろうろ歩き出して落ち着きがない。やがてソファーの隣に座ると、「がっはは。」とテレビに向かって笑い声をあげた。あたしは大学生で、三つ年上で建築現場で働いている蒼ちゃんとは付き合って半年になる。広い家に住むのが夢だと蒼ちゃんが言ったから、それまで蒼ちゃんが住んでいた小さなアパートの家賃と両親が振り込んでくれるあたしの下宿代を足して同棲を始めた。それほど広いというわけではないけれどリビングと二つの部屋があるこの家があたしたちの巣だ。「今週もクソ面白かったな。また明日観よ。」蒼ちゃんはテレビを消すとあたしの頬にキスをして、それから顎をつかんで唇に触れるだけのキスをした。静まった部屋の中であたしは何者でもなくただ彼のものであるような安心感があった。そして蒼ちゃんはあたしを部屋に連れていくとベッドに座らせて、自分は立ったままキスをしてキャミソールの下から手を入れて胸を触った。目を開けると蒼ちゃんの目は閉じていて、部屋の扉がきちんと閉まっているのを視線を流して確かめた。蒼ちゃんはそれから少しあたしの身体を触ると、服を脱いであたしをベッドに寝かせて挿入した。厚い胸板に手を伸ばして触れる。「固い。」と呟くと、蒼ちゃんは膨らみの少ないあたしの胸に触れて、「柔らかい。」と言った。それは蒼ちゃんの嘘で優しさかもしれなかったけど、笑顔を向けるとそれ以上何も言わないであたしの上になった蒼ちゃんが動くのを見ていた。水を得た魚のように蒼ちゃんはぐんぐんと動いて、「痛くない?」とときどきあたしを気づかった。頷くと、「なら良かった。」と頭を撫でられてまた突かれだす。でも蒼ちゃんはあたしが気持ち良がってはいないことを分かっていて、気持ちいい?とは尋ねない。蒼ちゃんは腰を振りながら苦しげに顔を歪めたりするのは気持ちいいからなのだろうけど、あたしにあるのは突かれている感覚だけだ。だけど蒼ちゃんを近くに感じられるからこうするのは嫌いではなくて、毎晩蒼ちゃんに抱かれるのはどちらかといえば好きなことだった。本当は声を出したり感じているふりをした方がいいのかもしれなかったけど蒼ちゃんと付き合うまで処女だったあたしはそうしたやり方が分からなくて、目を開けて見上げている。蒼ちゃんが動いた拍子に汗が飛んできてあたしの頬に着地したのを指で拭おうとしたとき、それに気づいていない蒼ちゃんに両手を繋がれ見下ろされた。手と手を繋いで局部と局部を繋いでいるからあたしが蒼ちゃんに流れ出ていって蒼ちゃんがあたしに入ってくるようだった。でも蒼ちゃんが激しく動くのにしたがってベッドが揺れるものだから、その音が伝わっていないかが気になって壁へと視線を動かした。リビングを隔ててその隣の部屋には弟の颯介がいる。もともとはあたしと蒼ちゃんの二人で暮らしていたのだけど、高校を中退した颯介はちょっと環境を変えてみた方がいいんじゃない?という名の厄介払いで母親と再婚相手が暮らす家から追い出され、母親はあたしが一人暮らしをしていると思っているし下宿代は出してもらってるしで強く言えず、何より蒼ちゃんが俺は別にいいよと本当に別に良さそうに言ったので春頃から家で暮らすようになった。もとはあたしと蒼ちゃんがそれぞれ部屋を持っていてそれぞれのベッドがあったのだけど、あたしの部屋を颯介に譲って蒼ちゃんのベッドで一緒に眠るようになった。これはずっと続くことじゃなくて颯介が自分なりの道を見つけるまでということだったけれど、あたしは蒼ちゃんを大好きなわりに醒めているところがあって、颯介がそれを見つけて家を出ていくのが先なのか蒼ちゃんとあたしが終焉を迎えるのが先なのか分からないと思う。蒼ちゃんと同じベッドで眠るようになってから蒼ちゃんとあたしが違うんだということを喜びより悲しいものに感じることが増えた。身体が大きくて声も大きくて大雑把で細かいことを気にしなくて明るくて優しい蒼ちゃんのあたしと反対のところが大好きでトランプの表裏みたいにあたしたちがきっかり反対になっているところを発見するのが前は嬉しかったのに今はそれがあたしを少し悲しくする。「あーだめだいきそういっていい?」繋いでいる蒼ちゃんの手は熱くて額に汗をかいているのにあたしの身体は温まっていなくて冷たいんだろう。頷くと、「あーいくいくいくいくよ。」と喘ぎ混じりに言ってあたしの膣内に蒼ちゃんを射精した。蒼ちゃんはゴムをつけなくて、話す友達がいないあたしにはそれが普通なのかそうでないのか分からないけれど、蒼ちゃんはときどき女の子も男の子も両方ほしくて男の子が産まれておっきくなったら一緒にバイクで走り回りたいみたいな話をしていたから、いつかあたしが妊娠することがあれば蒼ちゃんと結婚するのかもしれなかった。でもそれは絵本の一ページのように

 

 洗面所で蒼ちゃんがドライヤーをしている音が聞こえる。あたしはリビングのソファーの端で体育座りをして、蒼ちゃんがお風呂に入る前につけていったバラエティ番組を見るともなしに眺めている。テレビの中では芸人さんが笑っているけれど、蒼ちゃんはこの番組が好きで、今回も神回だなんて言って楽しそうに観ているけれど、蒼ちゃんがいなければあたしはこの番組をわざわざつけたりしないだろう。短い蒼ちゃんの髪はすぐに乾いてもうすぐあたしのところに戻ってくるのだろう。それで、この番組を最後まで観たあとに部屋であたしを抱くのだろう。部屋着のショートパンツの上に置いていたビールを持ち上げて一口飲むと、またひとつあたしが薄れてよく分からなくなった。「よっしゃ十一分で上がれたわ。どう?なんか面白いことあった?」蒼ちゃんがリビングに顔を出して、「別に。」と首を振ると、「そっかあ別になかったかあ。じゃあいいやあ。いいタイミングに風呂入ったな俺。」と満足そうにした。あたしの横に腰を下ろして、「ちょっとちょうだい。」とビールを奪う。蒼ちゃんは缶を持ち上げて仰いだものの顔をしかめて、「子ども舌の俺にはいかんなあ。やっぱりコーラにするわ。」と立ち上がった。冷蔵庫で冷やしていた二リットルのペットボトルからコップに注いで、「やっぱりコーラだよなあ。」とひとりごちるのが聞こえた。それから、リビングのすみっこでちんまり座ったかと思うと、時おりコップに口をつけながらうろうろ歩き出して落ち着きがない。やがてソファーの隣に座ると、「がっはは。」とテレビに向かって笑い声をあげた。あたしは大学生で、三つ年上で建築現場で働いている蒼ちゃんとは付き合って半年になる。広い家に住むのが夢だと蒼ちゃんが言ったから、それまで蒼ちゃんが住んでいた小さなアパートの家賃と両親が振り込んでくれるあたしの下宿代を足して同棲を始めた。それほど広いというわけではないけれどリビングと二つの部屋があるこの家があたしたちの巣だ。