夏の夜。リビングに三人が集まっているのに蒼ちゃんはテレビの前のカーペットのところでギターを弾いていて、颯介はダイニングテーブルの椅子の上であぐらをかいて本を読んでいて、あたしは蒼ちゃんの近くのソファーにかけて小説を捲っているもののあまりその内容が頭に入ってきていなくてときどき蒼ちゃんを盗み見るのだけど蒼ちゃんはそれに気付いていないような夜だった。蒼ちゃんは日中外で働いているせいか暑さに強くてエアコンをつけたがらないので、窓を全開にして扇風機を強にした部屋では扇風機の羽音とときどき外を人が通り過ぎていく音と、蒼ちゃんが自信満々に弾くギターの音で満ちていた。蒼ちゃんのギターが上手いのかあたしにはよく判断がつかないけれど蒼ちゃんはバンドを組んでいてたまにライブをしたりしている。あたしはそのライブを見に行ったことが一度あるけど、親しい人たちが客として集まったのだろうライブであっても舞台の上の蒼ちゃんは他人のようで、格好いいと女の子たちに拍手されるのは誇らしいよりずっと蒼ちゃんが遠くなるようだった。ギターを弾く蒼ちゃんが悦に浸っていてあたしを見ていないのを颯介が本に熱中していてあたしたちのことなんて気にしていないのを確かめて時おりそっとお腹を撫でた。ドラックストアの検査薬が陽性になって昨日産婦人科に行って分かったことだったけどあたしは妊娠していた。今は妊娠の五週だけど中絶するなら六週から九週までの初期がいいのだとお医者さんが言っていた。あたしにはそれほど時間がなくてそれを蒼ちゃんに告げるかすら迷っていた。あたしより遅い時間からコンビニのバイトに出る颯介にはバレてしまっていたけど今日は大学をずる休みして一日中ベッドにいて、その昼の間うるさかった蝉の鳴き声も今は止んでいて、あたしたちが三人いる光景の中で蒼ちゃんが指を動かすたびに音が奏でられでもそれが瞬く間に空気に浸透して溶けていくのが悲しくて涙が出そうになった。情緒不安定かよ、そうだ。でもちらりと見た蒼ちゃんは気持ちよさようにギターを弾いていて、こないだの女の人と蒼ちゃんのことが頭をもたげる。でもこれは単なる焼きもちじゃなくて、あら焼きすぎて焦げちゃったのねじゃなくてあたしと蒼ちゃんの間に横たわるもっと根源的なことで、蒼ちゃんとあたしはふさわしい番いではないんじゃないかというずっと端っこで感じていたことが今になってじりじりじりじりとあたしを焦がす。嫌だな。好きだよと言いたいと思った。ずっと一緒にいようねと言いたかった。あなたの子を妊娠したのと言うべきなのかもしれなかった。ページを進めていっているのに文字を目で追っているのに全然分からなくて目を滑り落ちていく。俯くと木目の茶色いフローリングの隅に埃でできたもにょもにょがあるのが見えて掃除機をかけなくちゃって思う。易々と蒼ちゃんに言い出せないのは、蒼ちゃんが目を輝かせて産んでと言うかもしれないことが怖いから。なんてあたしは後ろめたくて最低なのかと思うけれどそれは一年や三年のことじゃなくて少なくとも二十年契約のことぐらいで、あたしの存在にすら不安定なあたしがあたしと蒼ちゃんの子どもを産むのかと思うとなんかね色んなこと放り出してウミガメになって無心に卵をぽこぽこ産卵するか死にたいと思ったからだめだーってそれを蒼ちゃんに言うことすら躊躇っている。ぱたぱたぱた瞬きをして何歳かになった蒼ちゃんの子どもとあたしと蒼ちゃんと生まれたての子をあたしが抱えているところを想像するけれどそれは想像に過ぎないようでどうしてか泣きたくなる。ええ?読んでいた小説がとうとう犯人を見つけて山場を迎えたらしいのにぼうっと読んでいたあたしには主人公の言っていること記述されていることに意味が分からなくて、開いたまま本を膝の上に置いて読んでいるんですよというポーズを保ちつつもこちらをちっとも気にしていない蒼ちゃんと颯介を見た。「ねえ蒼ちゃんコーラ飲む?」蒼ちゃんはギターの演奏を止めることなく、「入れてくれるの?ありがとー。」と軽く返事して、「颯介もコーラ飲む?」とあたしは尋ねたその瞬間死んでしまいたかった。颯介はコーラとか人工的に味のついたジュースは好きじゃなくて家の冷蔵庫には二ニットルにコーラのペットボトルが入っているけどそれを飲むのは蒼ちゃんだけだった。こんなの人任せでいい加減で良くないかもしれないけど颯介がいると言ったら妊娠していることを蒼ちゃんに告げて、いらないと言ったら蒼ちゃんには言わないと今決めた。三人が思い思いのことをしている中で一番手持ちぶたさなのはあたしだったろうけど、「なんで。姉ちゃん僕が炭酸苦手なの知ってるのに何その嫌がらせ?」と眉をひそめる颯介に、「一応聞いてみただけだよ、一応。」と苦笑いすると、「そんな一朝一夕で好きになることじゃないよ。」と颯介は薄く笑った。